中卒フリーライターほぼ無職。

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【映画感想】「ドライブ・マイ・カー」傷つきながら生きていく者への救済の物語

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生きている人は生きていかなきゃならない、と感じるaoikaraです。絶対ではないけれど。でも、生きていくということは、生きていかなければということなんだと、この映画を観て感じました。

 

今回のテーマは…

 

映画「ドライブ・マイ・カー」感想

 

です。

※ネタバレを含みます。

※2021年10月に観て書きました。

 

あらすじ

舞台俳優であり演出家の家福(かふく)は、愛する妻の音おとと満ち足りた日々を送っていた。しかし、音は秘密を残して突然この世からいなくなってしまう――。2年後、広島での演劇祭に愛車で向かった家福は、ある過去をもつ寡黙な専属ドライバーのみさきと出会う。さらに、かつて音から紹介された俳優・高槻の姿をオーディションで見つけるが…。


喪失感と“打ち明けられることのなかった秘密”に苛まれてきた家福。みさきと過ごし、お互いの過去を明かすなかで、家福はそれまで目を背けてきたあることに気づかされていく。

引用元:映画「ドライブ・マイ・カー」公式サイト

 

感想

マナー違反な映画の見方

ひとつ前置きとして、私はマナー違反な映画の見方をした。私は張り詰めた緊張感が苦手で逃げ出したくなってしまう性格だ。

 

現実だけではない、ドラマや映画でも。あまりにもハラハラとしてしまうと、心が耐えられなくて、怖くて逃げ出してしまう。

 

今作も同じだった。途中で張り詰めた緊張感に苛まれてしまった。嫌なら観るのをやめたらいい。だけど先の展開は気になる。

 

だから、文章で物語を読んでしまった。ものすごくマナー違反だと思う。でも淡々とした文章で流れを知ることで、観られないほどの感情の揺さぶりを落ち着かせて、覚悟しながら観ることができた。

 

正しくない見方だと思う。そうしてでも観たかった、というのは言い訳だ。でも、観たかった。

 

私もみさきが運転する車でドライブをしているような

今作は179分もあり、ものすごく長い。でも、長いと感じさせないほど、ずっと観てしまった。このところ、自分の気持ちを落ち着けるために、気持ちをスマホで記録したり、書いたりして自分で見返すようにしている。それでも心がざわついて落ち着かないときはある。

 

この映画を観ていると、観られなくなるほど心がざわついていたはずなのに、見続けていると止められなくなった。

 

みさきが運転する車は、乗っているのを忘れるほど穏やかで、気がつくとぼーっとしているような、考え続けているのに頭が空っぽになるような、止まっていないのに止まっているような居心地のよさが伝わってきた。

 

私も同じだ。映画を見続けていると、物語は進んでいるはずなのに止まっているような、考え続けているのに頭が空っぽになるような、居心地のよさを感じた。

 

めちゃくちゃ残酷なまでに二人の物語のパーツでしかない人

物語には、高槻耕史という、言葉を選ばず端的にいうならば“クズ”だなという俳優が出てくる。何かが欠けている。家福の言葉を借りるなら、「自分を抑えられない」人。

 

未成年に手を出しちゃうし、一般の人が自分のことをスマホで撮っていると思ったらケンカを売らんばかりに詰め寄るし、共演女優にも手を出しちゃうし。こうやって書くとわかりやすくクズっぽいけど、本人の中では「そうしなければならなかった」んだろうなと思わせる姿がある。呆れてしまうけど、憎めない。

 

家福は高槻に振り回されているようにも見えるけど、映画を見終えたときに、彼は家福と亡くなった妻の音という二人の物語の中で、つなぎ合わせるためのパーツでしかないんだな、という残酷さを感じた。

 

音は体の関係を持つと物語を語り出す。だから、家福が音から聞いたという物語に対して、高槻が「その物語には続きがある」といえば、「私はあなたが愛する妻の、あなたが知らないことを知っている」という、いわばマウントになる。

 

でも違う。そして高槻もわかっている。物語の続きは、音の本心で、その気持ちを伝えたい相手は家福でしかなかったから。

 

家福の前から音がいなくなり、高槻が現れて、高槻も去って行く。だけど、家福の前に確実に音の存在を残して。そして、家福は前に進む。高槻の存在はメッセンジャーで、役割を終えて去って行くまでも、家福と音のためでしかないのがすごく残酷だなと思った。

 

誰かが感想で「岡田将生にクズを演じさせたらピカイチ」と言っていたけど、激しく同意する。岡田さん本人との線引きがくっきりとしているのに、高槻の危うさにはリアリティがある。高槻は役割を全うしていて、自身でも理解しているから、やっぱりなぜか憎めない。

 

家福の吐露に涙がこぼれた

家福が作り上げていた舞台が公演中止になるか、あるいは家福自身がやりたくないと思っていたけれど役を演じるか、選ばなければならないとなったとき、家福はみさきが運転をする自分の車で、みさきが生まれ育った北海道へと向かう。

 

もうなくなったみさきの家の前で、家福が自分の気持ちを話す。初めて家福の感情が露わになった瞬間を見た。あれだけいろんなことがあったのに、家福は何もなかったかのように見えた。

 

「僕たちは正しく傷つくべきだった」

「もう一度、音に会いたい」

「会って問い詰めたい」

「でも、もうできない」

 

感情が露わになる家福の吐露を見て、なぜか私は涙がこぼれた。どうしてなんだろう。つらいとか、悲しいとか、しんどいとか、怒りとか、虚しさとか、そういうのではなくて。ものすごく共感したとかでもなくて。自分でもどうして泣いているのかわからなかった。

 

まるで、家福の演出のようだった。役者の本読みで、感情を込めない。感情が入ったらやり直し。これを繰り返す。濱口竜介監督のインタビューを読んで、同じ演出をおこなっていると知った。

 

物語全体が家福の、濱口監督の演出のようだった。脚本の中には感情が揺れ動くような出来事がいくつも起きるだろう。でも、感情を込めないで読んでいく。いざ演技を始めたときに、そのときに産まれた感情が、役者たちを動かす。

 

映画も感情が揺れ動くような出来事がいくつも起きた。だけど、家福は感情を込めないで本読みをするように、ひとつひとつを受け止めていた。だからこそ家福が感情を露わにした瞬間に、観る側の感情を動かすものがあったのか。

 

私は、感情の正体がわからないまま、涙した。ただ私の語彙力がないだけかもしれない。言語化する能力が足りないだけかもしれない。でも、映画を観る側までも、感情を抑制するように演出されていたのかもしれない、なんて思う。

 

「ワーニャ伯父さん」のラストシーンは物語のラストシーン

物語の終わりは、家福が演出し、そして自らも演じることを決意した、舞台『ワーニャ伯父さん』のラストシーンで締めくくる。家福はワーニャを演じ、手話を使って話す、韓国女優のイ・ユナがワーニャの姪・ソーニャを演じる。

 

家福が演出する舞台は役者の国籍が違い、多言語が飛び交う。日本語、中国語、韓国語、そして手話。

 

ワーニャは自分の苦しみを吐露すると、ソーニャはワーニャに寄り添い、語りかける。手話だけど、たしかに語りかけている。しんとなった音のない舞台で、ソーニャの言葉だけが、ワーニャと、観ている人たちに語りかけてくる。

 

私は手話がどういう意味を表すのかを知らなくて、映画では字幕が出ているのだけど、それでも語りかけてくるようだった。ワーニャと、家福と、この映画を観てきた私たちがたどり着いた場所にあたたかく迎え入れて、そして背中を押してくれるような。

 

舞台は幕を閉じ、拍手が鳴り止まないけれど、日常は続く。みさきは韓国にいて、マスクをして、他の人もマスクをして、買い物をして、犬を乗せて、家福の車を一人で運転している。今までにない、口角を上げた表情で。

 

人は傷つきながら、死んでいくし、生きていく

私も、傷つき、傷つけられ、死と向き合ってもう一生癒えることはないのだろうなという傷があるけど、それでもこの傷と一緒に生きていくんだと、感じたことがある。だから、家福の決意にとても強く共感した。

 

「生き残った者は、死んだ者のことを考え続ける。どんな形であれ、それがずっと続く。僕や君は、そうやって生きていかなくちゃいけない」

 

もう永遠に取り返しがつかない、自分の傷つき、自分が与えた傷つきを抱えながらも、やっぱり生きていかなくちゃいけない。

 

そこに続く「ワーニャ伯父さん」のソーニャの語りかけてくる言葉は、まるで救済のようだった。だけど救済で終わらせるのではなく、生きていくみさきの姿を見せるのがよかった。物語は終わるけど、人生は続く。

 

そこに家福はいなかったけど、家福も一緒に生きているんだと思った。それは愛とか恋とか情とかではなくて。私たちはそうやって生きていかなくちゃいけないから。そうやって生きていく僕や君だから。

 

aoikara

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