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東野圭吾『容疑者Xの献身』読書感想 石神は最後に何を思ったのか

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何度も読み、何度も見たことがあった。それでも、心をかき乱される。きっとまた私はこの本を読むだろう。

 

※ネタバレを含みます。

 

東野圭吾『容疑者Xの献身』作品情報

あらすじ

天才数学者でありながら不遇な日々を送っていた高校教師の石神は、アパートの隣室に一人娘と暮らす靖子に秘かな想いを寄せていた。靖子は、元夫の富樫にしつこくつきまとわれ、発作的に自室で彼を殺してしまう。警察への自首を覚悟した靖子だったが、殺害に気づいた石神は、彼女たちを救うため、完全犯罪を企てる。そして、靖子にこう言うのだった。「私の論理的思考にまかせてください」草薙刑事から事件のあらましを聞いた帝都大学理学部の助教授、ガリレオこと湯川 学は、関係者の中に懐かしい名前が混じっていることに気づく。帝都大学の同期生で、湯川が唯一天才と認めた男、石神哲哉だった。

引用元:作品解説|東野圭吾ガリレオシリーズ特設サイト『倶楽部ガリレオ』|文藝春秋

東野圭吾『容疑者Xの献身』感想

改めて気づく重さ”

初めて作品を知ったのは映画だった。何度も見ている。トリックに衝撃を受けた。

そして何より、堤真一さんが演じる、石神の最後の姿が印象的だった。崩れ落ちるような、感情の全てが崩壊するような叫び。原作では“咆哮”と表現されている、まさにそれ。

 

映画化されたのが2008年で、テレビで放送されたのが翌年だから、その頃に初めて見たのだろうか。当時の私は、登場人物の中で、花岡靖子の娘である美里に一番近い年齢だった。いわば子どもだ。

だから、衝撃的なトリックに込められた衝撃も、そこまでする石神の思いも、きちんとは理解できていなかった。子どもながらに感じ入るものはあったけれど、その正体はわかっていなかった。今はわかっている、とは簡単にいえないほど、年を重ねて理解が深まるほど、石神がした“こと”が重くのしかかる。

 

石神の“咆哮”の理由

初めて映画を見たとき、石神の“咆哮”は、自分が思い描いていたものが全て崩壊してしまい、石神自身も崩壊してしまったのだと見えた。

もちろん、私が最初に感じた印象も当てはまっているとは思う。ただ、今回改めて本を読んでみて、ただそれだけではないように感じた。

 

人の感情はときに単純で、ときに複雑だ。こうだったからこう感じた、ように見えても、“こうだったから”も“こう感じた”もひとつではないと思う。

 

緊張の糸が切れたから

まず、石神の状況は、あまりにもずっと緊張が張り詰めていた。靖子と美里の母子が元夫の富樫を殺めてしまい、石神が気づき、母子を守ろうとしている間ずっと緊張が張り詰めていた。最悪の事態、として用意した“自分自身が容疑者になる”ことで、事を成せる目前まできた。

そして、取調室に会いに来た湯川に対して「最後の難関」と石神は受け止めていた。靖子が自首しに来て、石神に鉢合わせしたのは、「最後の難関」を終えた直後だった。ずっと緊張が張り詰めていて、ふと緊張の糸がほんの少しだけゆるんだ瞬間、思いもしないことが起きた。

コップにいっぱいの水を注ぎ、表面張力でなんとかこぼれないでいる、その一瞬の揺らぎ、靖子との思いもしない再会は水をあふれさせてしまう一滴となってしまったのではないか、という視点。

 

愛情を受け入れてもらえなかったから

恋愛の視点ではどうだろう。石神の行動は献身であり、まぎれもなく愛だった。最終的には、自分が容疑者になってでも靖子と美里を守ることは、石神にとっての愛で、それを靖子は受け取らなかった、「自分の愛情を受け入れてもらえなかった」ことも、石神の咆哮の理由になるだろうか。

 

靖子の立場になって考えてみると、石神のあまりにも大きすぎる、献身ともいえる愛を受け止めきれない、と感じても不思議ではないと思う。

初めて映画で、靖子が自首しにきた姿を見て、石神だけを苦しめるわけにはいかないという、それもまた愛のように見えた。だけど、今は、愛とはまた違うのかもしれないと思う。

 

靖子にとって、石神は本当にただの隣人で、毎日自分の職場で弁当を買いに来て、どうやら自分に気がありそうだと周りにも噂されるけど、だからといって今までの関係が気まずくなることもなければ、心がときめくわけでもない、日常にいる人たちの一人に過ぎない人だった。よくて知人、それ以上にはならない、なり得ない。

そんな人がなぜ自分にここまでしてくれるのか。人は、あまりにも大きすぎるものをもらうと、かえって心の負担になることもある。「私を犠牲にして幸せになってほしい」と言われて、その愛情の強さや深さに心を支えられてきたものの、「それじゃあ幸せになります」と返せるかといわれると、そんな単純ではない。

 

もしかしたら、靖子ひとりなら、罪悪感も飲み込んで、苦しんで生きていくことを償いとして選択する道もあったかもしれない。靖子ひとりでそんな想像もした。でも、靖子は一人ではない。娘がいる母だった。

思えば、靖子の行動は全て母としての姿があった。富樫から離れて一人で働きに出たのも、娘の美里との生活を守るため。富樫を殺してしまったのを隠そうとしたのも、関わってしまった美里を守るため。そして、自首することにしたのも、おそらくは罪悪感に耐えきれなくなって生きていくのをやめようとした美里を守るため。

 

石神の、幸せになってほしいという思いに対して、靖子は「あたしたちだけが幸せになるなんて……そんなの無理です。」と言った。「あたしたち」、靖子は美里とともに生きている。だけど、罪を償うことに関しては、「あたしも償います。罰を受けます。石神さんと一緒に罰を受けます。あたしに出来ることはそれだけです。あなたのために出来ることはそれだけです。」と答えた。

石神が、自分たち母子にしてくれたことは、自分への愛情なのだろうと受け止めて、受け入れられない、と答えたのだ。それでいて“一緒に”という言葉には、愛の響きのようなものも感じられる。

 

靖子と美里の日常が壊れてしまったから

石神に恋愛感情がないとはいわないし、靖子に惹かれる気持ちがなければ行動しなかっただろうが、恋して愛しているからという行動原理だけではないように思う。

 

石神は自ら命を絶とうとしていた。死のう、なんて、何か衝撃的な大きな出来事が起きたわけじゃない。望まないけど変えようとする労力もない日常を過ごしていくうちに、絶望はじわじわと蝕んでいく。心が絶望に染まりきったとき、この世からいなくなる、以外の選択肢がなくなってしまう。

だから行動しよう、としたその瞬間、靖子と美里が引っ越しの挨拶に来たことで、石神の日常は変わる。石神にとっては劇的に、きっと世間的に見ればささやかに、靖子と美里にとっては何も変わらずに。

母子たちの日常が隣にあることが、石神の心の灯りをともした。それは石神の日常を取り戻すような感覚だったのだろう。靖子と美里のとりとめもない日常がある、という事実こそ、石神にとっての幸せだった。靖子への恋と呼べるような感情があったかもしれない。だけど、それ以上に、日常が幸せだったのだと私は思う。

 

だから、母子たちの日常を守るためならなんでもした。今日もあの母子は幸せだろうか。幸せだろう。自分が日常を守り切ったのだから。そう思えば、石神の心も救われるだろう。これからの長い長い牢獄生活も、今までの思い出と、今に思いを馳せるだけで幸せに生きていける。

 

しかし、警察署で靖子が石神の前に現れた瞬間、靖子と美里の日常が消えた。二人の日常は、石神にとって今日を生き延び、明日も生きようとする、いわば希望だった。その希望が失われた。石神は、ロープを首にかけようとしたあの瞬間まで戻ってしまったように、堰き止めていた絶望が全身から溢れ出すような咆哮だったのかもしれない。

 

石神が呪った運命だから幸せだった

石神は、花岡母子に出会う前、自分の運命を呪っていただろう。でも、石神が歩んできた人生があるから、“容疑者Xの献身”になり得た。

 

大学の研究職ではなく、高校教師として、数学なんてまるで興味がない、価値がないと平気で態度に出す、どころか口にも出してしまう高校生たち相手に授業をしてきた。

靖子は、石神からもらった資料を「具体的な指示」だとか、「わかりやすく丁寧に」と感じていた。もっと専門的で高度な数学をずっと研究し続けていたら、靖子に伝わるように物事を伝える術を持っていただろうか。高校の教師を長らく続けていたからこそ、できたことだと思う。

 

そもそも、石神が違う運命をたどっていたら、靖子には出会わなかったし、出会ったとしても惹かれていなかったのではないだろうか。今の石神だから、靖子に惹かれたのだ。靖子を愛したことは、石神にとって幸せだったはずだ。


終わりに

映画で視覚的に、印象的にされているシーンは、文章ではさりげなく散りばめられている。緻密に、巧妙に、そんなことわからないとすり抜けてしまうほどに。トリックも結末もわかっているはずなのに、新鮮に楽しみながら読めた。またいつか、私の人生に変化が訪れたあとにでも読んで、「これはそういうことだったのか」と思い返したい。

 

P.S.本を読んだあと、やはり映画を観たくなり、観た。堤真一さんの演技は覚えていた以上だった。胸が苦しい。それを見るために観ているところもある。本も映画もいいね。

 

 

 

 

aoikara

 

 

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