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【読書感想文】湊かなえ『高校入試』結局何が悪いのか

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何が正義で何が悪か?そんな疑問は誰しもあるが、そこに答えなんてないのかもしれない。それよりも考えなければならないことがある。そんな風に思えた一冊です。

 

※ネタバレを含みます。

 

あらすじ

県内有数の進学校・橘第一高校の入試前日。新任教師・春山杏子は教室の黒板に「入試をぶっつぶす!」と書かれた貼り紙を見つける。そして迎えた入試当日。最終科目の英語の時間に、持ち込み禁止だったはずの携帯電話が教室に鳴り響く。さらに、ネットの掲示板には教師しか知り得ない情報が次々と書き込まれ…。誰が何の目的で入試を邪魔しようとしているのか?振り回される学校側と、思惑を抱えた受験生たち。やがて、すべてを企てた衝撃の犯人が明らかになる―。 

出典元:内容(「BOOK」データベースより)

 

読書感想

学校の先生って大変だな…

読みながら感じたことは、学校の先生は大変だなということ。どちらかというと学校や教師を断罪するような方向性の内容なので、こんな感想を抱くのはあまりないのかもしれない。

 

個人的には、学校側の人々が意図的に自分のことしか考えていないような人々として描かれているようにも感じてしまって、「そんなこともないでしょう」という感情が出てきてしまう。一生懸命な学校と先生もいて、それを享受してきた人間だからかもしれない。中卒だが学校という場所には恵まれていた。運が良かったのだろう。

 

入試を受けた側ではあるが、受けさせる側にはなったこともなく、また想像をしたこともなかった。受けさせる側としての対応に、絶対にミスしてはいけない採点と、ものすごく気を張り詰めていなければならない。

 

杏子先生は「夜9時くらいで遅いとか言ってるの?」と民間企業ならよくあるのにこれだから学校って教師って…と呆れているようだが、受験の日だけそんなに遅いなんてことはない。学校は通常の日でもそれくらいまで遅く残っている先生はざらにいる。もっと遅いこともある。

 

それでいて残業代出ない。もちろん残業代が出ない企業もたくさんあるだろうし、多くの民間と比べて公務員は良い給料をもらっているのだから、学校や教師に「文句言うな」と言われてしまうのもわかる。

 

しかし、大手ツーリスト会社にいた杏子先生なら残業代も出ていただろうしな…と思ってしまうのだ。外から見たものを取り入れるのは大切だけど、それはその学校の体質がどうしようもないだけで残り全てがダメなわけではなくて。答えを見出そうとするのが早すぎるというか。

 

たしかに、なかには「どうしようもない」先生もいる。9割が頑張っていても、1割がダメだと「教師ってこうだから」と言われてしまう職業の一つのように思う。政治家とか医者とかスポーツ選手とか、目立つ人はどうしても言われる。

 

さらに自分や子どもの担任が「どうしようもない」人だったら最悪なわけで…。人生を左右することも大いにある。だからこそ存在として叩きたくなるのもわかるが、それでもやはり大変だなと思ってしまうのも本音としてある。

 

“入試を受けた側”として“採点する側”を疑うこともなかった

入試を受ける側でしかなかった私としては、「入試で採点ミスされるかも」なんて疑うことはなかった。それよりも受験への不安が大きく、受けさせる側がミスするという疑いなんて感じないかもしれない。

 

日常のテストでは先生が採点ミスをするなんてこともよくあったりして、「人間は完璧じゃない」ということも知っている。それでも「入試はミスされるわけがない」と思い込んでいる。これが良いことなのか悪いことなのかはわからないが。

 

よく考えたら採点する側も人間で、入試と言えどもミスがあるのか。と、納得はできる。納得できるのは、自分がその被害を受けていないからとも言える。当事者だったら、許せるわけがない。

 

そういえば別の学校に通う同年齢の人から「自分もそこを受けたけど落ちたんだよね」と言われてしまって、どう言って良いかわからず黙ってしまったことがある。けど、もしかするとその人も“採点する側のミス”があって人生が変わってしまったかもしれない。

 

もやもやするけど悪なのか

『高校入試』という物語を勧善懲悪だとは思わない。対象である学校・教師・入試・保護者・生徒…嫌悪感を抱く存在はいる。たくさんいる。しかし、それが悪なのかと問われると難しい。

 

イヤミスと言うだけあって、もやっと嫌な気持ちになることが多い。だから、ついつい「何だそれ」と個人的には思ってしまう“悪”もある。

 

例えば「ミスしても仕方ない」と入試の採点でミスしたことを反省もしてない教師。読んでいて腹立たしいし、実際にそういう教師はいるのだろう。しかし、言っていることが全て間違っているわけでもない。「一理ある」と思ってしまうこともある。

 

例えば出身高校に固執している人たち。そういう学校もある。学校以外にもいる。外から見ると「小さな集落」レベルで「何であんな小さな世界で偉そうに威張れるんだろう」なんて思うけれど、中に入ってしまうとわからない。学校は閉鎖的でそう思い込みやすい場所でもある。しかし、出身高校に誇りを持つ気持ち自体は間違っていない。

 

例えば、いじめをしていた生徒。意図していなかった過ちとはいえ嘘を吐いて自分の身を守ろうとした生徒。個人的な感情として、悪いことをした人間はその報いを受ければ良い、“合格”という人生の成功を手に入れさせたくはないと思ってしまう。が、現実はそうでもない。子どもなのもあり、新しい環境で年齢を重ねていくことで、成長していくこともできるかもしれない。

 

悪と言えるほど卑劣ではないが、もやもやとした気持ちが残る。日常には「悪」と断罪できるものの方が少なく、むしろこの本のような「腹立たしいけど叩けるほど自分は正しいのか?」というもやもやとした感情を抱くことの方が多いように思える。

 

「入試をぶっつぶす」作戦は正義なのか

 「入試をぶっつぶす!」

 

過激な言葉は不穏なものを感じさせつつ、実際にやってくる気配はなく、じわじわと迫っていつのまにかしてやられていた作戦だった。高校入試と、それを司る学校や教師の在り方を問うのが目的だったわけだが、果たしてそれが正義だったのかは私としては疑問だ。

 

作戦の首謀者は「復讐」と言った。兄の代わりに、兄のためにという動機に嘘はないと思う。同じ中学生に比べてとても賢い男子ではあるが、中学生としての純粋な気持ちがあったのだろう。私も身近で被害に巻き込まれた人がいて、その人の代わりに何とかしてやりたいと腹立たしく思った経験があるからとてもよくわかる。

 

わかるからこそ、本当に兄のためだけなのかと問いたくなってしまう。父母の離婚も、父が家に帰らず女のところにいるのも、兄が引きこもってしまったのも、そして自分がつらい思いをしているのも、全て兄を追いやった高校入試のせいだと思い込んではいないだろうか。その復讐は兄のためと言いながら、苦しんでいる状況にいる自分のためではないだろうか。

 

本当に兄のためだとしたら、誰かを傷つけることなんてしない。作戦のせいで別の誰かの入試がダメになってしまう可能性もあった。結果としてはそうならなかっただけで。自分の不遇を兄と絡めて、復讐することとコントロールできている全能感を楽しんでいた部分が1mmもないわけではないと思う。

 

協力者の杏子先生にも同じようなことを感じる。たしかに、入試で採点ミスをし、その責任を感じて自殺してしまった大切な人の気持ちを理解したいと、同じ教師という職に就いたのは立派なこと。そこで高校入試の件を知って、「入試をぶっつぶす!」作戦に協力したのも、「高校入試の在り方を問いたい」という気持ちがあってのことだろう。

 

でも、それは自分の気持ちに折り合いをつけるためではないか。学校という社会に嫌気が差して一石を投じたいと思っていたところに、ちょうどいい動機付けがやってきたなとちょっとでも感じなかったのか。純粋に正義だけではなく、自分のためという気持ちもあるのではないか。

 

そう思ってしまうのは、入試のことは公にしろと言うわりに、体育教師と女子学生が交際していることに対しては公にせずうやむやにしているのが気になるから。それは良いのか杏子先生と。

 

女子生徒に手を出した男性教師がいるのは学校として教師として問いただすべき問題であるはずなのに、そこに対する問題意識がないのは「自分にとってはどうでもいい問題だから」という気持ちが杏子先生の中にあるように思う。

 

逆に言えば「これは私の問題でもあるから」と思っているからこそ、「入試をぶっつぶす!」に協力したように思える。もちろん人間だから全て他人のために行動するなんて難しい。でも、他人のためという名目で正義を振りかざしている感じにもやもやしてしまうのだ。

 

作戦の首謀者は被害者の弟であって、被害者当人ではない。本当に被害者のことを思っているなら、当人の気持ちを一番大事にする。

 

二人とも、本当に当人のことを考えたのだろうか。考えていたら、まず聞くだろう。自分たちのすることが彼を傷つけないだろうか、そのことを一番に考えるはずだ。でも、そうしなかった。他人のためという名目は気持ちいいし、自分のためであることを上手に隠すこともできるから。

 

私が嫌な人間だからこんな見方をするのかもしれない。

 

とはいえ、人生が懸かっていることに携わっている人たちにミスは許されない。医者が「失敗して死んじゃいました」で済まされないのと同じで、それくらいの覚悟が必要だとも思う。

 

その覚悟が学校と教師にあったかと言われると、なかった。そして、「入試をぶっつぶす!」はその個々が自分を見つめ直すきっかけになった。微々たるものだが、たしかに変化はあった。方法が正しいかはさておいて、変化が得られたのは幸いなことだ。

 

一番不幸なのは…

一番不幸なのは、入試の採点ミスかと思っていたら、自分が受験番号を書き忘れるミスをしてしまっていたと知った彼ではないだろうか。

 

ルールを定めて、それに沿わなかったから不合格にさせるのは仕方のないことだと思う。ミスをした人がどんなに優秀でも、特例を作ってしまうと他の子が不公平になってしまう。それが入試だ。

 

ウサイン・ボルトだって世界陸上のスタートでフライングをして退場させられた。絶対的な実力を持っていたとしても、本番でミスがあれば他の人と同様な処罰を受ける。「ボルトの走りが見たいから」「世界一速い男がいない中でレースをしても価値がない」と言われても、そういうものだと。

 

荻野先生が受験番号を書いていなかった彼の答案を0点にしたことについて「当時の判断は間違っていなかった」と言うのも、彼の気持ちを思うと心苦しいけれど同意してしまう。その後、荻野先生が自分を守るために書き込みで追い詰めるようなことをしたのは許されるべきことではないけれど、入試の判断については間違っていなかった。

 

入試を受ける者にとっては、人生が懸かっていることもわかる。でも、ミスをしたのは学校側じゃなくて、自分だったとしたら…やはりそれは悲しいけれど認めなきゃいけないのだと思う。

 

でも、そんなことは彼自身が一番よくわかっている。わかっているからこそ、ドキュメンタリーを撮って嘘偽りなく「自分のミスだった」と社会全体に伝えたのだ。彼は姑息なやり方もせず、言い訳もせず、自分の過ちを認めて堂々と生きることを決めたのだ。

 

自分の人生の失敗は自分のミスだったのだと、齢15か16にしてその重さを抱えなければならない。それはつらく苦しい。さらに世間から「自分のせいだろ」と批判も浴びることになってしまった。至極まっとうな意見もあれば、ただ絡んで叩きたい奴もいる。ただそんなの区別できるほど冷静でいられるわけもなく、批判を目にするたびに心はどんどん弱っていく。

 

本来はそんなとき励まし支えてくれるはずの親は自分のことばかりで不仲になって離婚して、彼はそれも自分のせいだと責めるだろう。そりゃあ引きこもりにもなるよ。何も感じたくない、生きているのさえつらいと思うよ。

 

さらに弟が「入試をぶっつぶす!」を起こしたなんて知ったら、「また自分がミスをしたせいで弟にこんなことをさせてしまった…」と悔やむのではないだろうか。そこまで想像しているのだろうか、弟は。杏子先生は。彼をもっと苦しめることになると思わなかったのだろうか。

 

彼は彼自身のミスで大きな挫折を味わって、自分自身をずーっと責めてきた。それは仕方のないことだが、その先に彼の周りで起こった悲しい出来事は彼のせいではない。彼の両親や弟が未熟だったからだ。

 

本当に彼のことを思う人がいたなら、彼と向き合うべきだった。私がそばにいたのだとしたら、彼に向き合って、目を見てこう言いたい。

 

「人間誰しもミスはある。そのせいで自分が深く傷つくこともある。そして、嘘をつくことなく、他人に責任転嫁することなく、前を向いて生きていくと決めたあなたはとても立派だよ。必要以上に自分を責めることはない。もう十分傷ついたんだから、これ以上傷つくことなんてないよ」

 

誰か一人でも彼に言ったら、心の重荷が少しだけでも軽くなったのではないか。結局、誰も本当に彼のことを心から思ってくれる人はいなかった。そのやるせない状況をとても不幸に思う。

 

けれど、「入試をぶっつぶす!」によって、彼もまた前向きになった。一歩踏み出さなければという気持ちの変化は起きた。誰かの心を動かすことができたのという点では、「入試をぶっつぶす!」は良かったのかもしれない。

 

本当の悪は?

彼を苦しめたのは彼自身が気づいている自分のミス。そして顔の見えない悪意。膨大な量の悪意だ。

 

萩野先生が恐れたのも顔の見えない悪意。自分にやましいことがなくても、その気持ちとは裏腹に判断もせず叩く人はいる。その矛先が自分に向けられたらと思うと、恐ろしくなるのもわかる。だから、自分を守るために自分が顔の見えない悪意になって、彼を追い詰めた。攻撃は最大の防御だから。

 

顔が見えないと好きなことを言える。本音として参考になることもあれば、本人が周りに言えない心の内を明かせてスッキリすることもある。しかし、顔が見えないから人を傷つけることを平気で言う。叩くことに快感を覚える。それが顔の見えない悪意だ。とても卑劣な行為だ。

 

しかし、今ブログという場で、顔も名前も出さずに意見を書いている私は、この物語の中で言うならば“顔の見えない悪意”に最も近いのかもしれない。

 

顔の見えない悪意にならないために

言葉は消えない。撤回しても削除しても言ったことには変わりない。だから悪意を人に向けたら、それは刃物のように鋭く突き刺さることを忘れてはいけない。

 

そして、想像しなければ。言ったことを相手がどう思うのか。想像すれば、あえて人を傷つけるなんてことはしない。意図的に人を傷つけたい人間なんかいない。

 

傷つけても良い人間だと思っているから傷つける。その動機はさまざまだが。犯罪者だからとか、嫌われている人間だからとか、もっと差別的な動機だってある。しかし、傷つけているときの人間はとても醜い。醜い人間になりたいか?私はなりたくない。

 

だから、言葉の重みを考える。想像する。顔の見えない人間だからこそ、言葉をもっと重く受け止めないと。

 

全体は変わらない、個々が変わるしかない

『高校入試』では「入試をぶっつぶす!」によって抜本的に問題が解決したわけではない。ただ、関わった人々に小さな変化があった。本人の意識が変わったり、強制的に環境が変わったりして。結局、良い方向に変えていくのは個々でしかないのだなと思う。

 

何においてもそう。全体が一気に変わることなんてない。全体を形成する個々が「変わろう」と意識を変えることからでしか変わらない。だから、自分が過ちに気づいたときはそれを認める潔さと、変えようとする意思の強さを持つ個でありたいと思う。

 

…と立派なことを宣言するのは簡単だが、私は弱い。人間が弱い以上に私は弱い。おかげさまで中卒だ。その弱さを認めることから始めないと。

 

現実世界で起きていること

実際に最近でも大学の入試採点ミスがあった。入試から何ヶ月も経って「実は合格でした」なんて言われても、気持ちの行き場がない。この物語で起きていることが実際に起きている。少なからず“人生を変えられてしまった人”がいる。

 

そのときの私はもう入試に縁のない場所で生きていたから、一つのニュースとして「気の毒だな」と思うだけだった。他人事だ。いや、今でも立場としては他人事なのだ。私の力でどうこうなる問題ではない。

 

だけど、改善もある。ミスがないようにと対策が進められている。

 

headlines.yahoo.co.jp

 

世の中には理不尽がたくさんあるが、理不尽を与えている側が「仕方ないよね」というのは違う。また理不尽を受けていない人が「仕方ないよね」と言うのも違う。理不尽にならない仕組みを、個が変わることで構築していけるのが社会だと思いたい。少しでも理不尽な不幸がない世の中になってほしい。

 

最初はこんなに感情的な部分を晒して書くつもりではなかったのに、見返すと恥ずかしい。改めて自分を振り返るのにはとても良い本でした。

 

 

aoikara

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