読書が趣味と言いながら、週に1~2冊ペースでしか読めていないaoikaraです。きちんと本を読んで、感想を書くということをしたことがなかったので、初めて書いてみようかなと思います。
そこで今回のテーマは…
です。
※読んでいる前提で思いのままに書いた文章をそのまま残したものです。内容を具体的に書いているわけではないので、わかりづらいところがあるかもしれません。
キッカケはとあるテレビ番組
とあるテレビ番組で「夫婦は顔が似てくるという話」というあらすじだと聞いたので、てっきりほっこり系はな話かと思った。が、全く違った。一言で言うなら
ぞっとする。
が読み終わった直後の感想だ。ホラー小説なんかより、ずっと怖い。
“夫”が嫌いだ
主人公、サンちゃんの夫に終始腹が立つ。私だったら耐えられないな、と思う。暴力を振るうわけでもない、経済的に困窮させるわけでもない、いわゆるDV男ではない。流行の言葉で言うならモラハラ男か。
自分が嫌だからやりたくないことを平気で他人に押しつける。親しければ親しい人に。“夫”はそんな人間だ。その根性には身の毛がよだつほどの嫌悪感を抱く。突き放さないサンちゃんにも腹が立つ。
彼女をつなぎとめているのは恋愛感情ではない。家族の絆なんてものでもない。夫婦だから、としか言えないつながりを感じさせる。決して美しいつながりなんかではないのだけれども、醜いわけでもないのだ。
夫婦の顔が似てくるということ
は、なんとなく良いことな気がしていた。お互いの心が段々と近づいていき、顔まで似てくるのだと。似たもの夫婦ってなんだかステキだ、とすら思っていた。この本を読むまでは。
似たもの夫婦はお互いに近づいているだけではなく、同時にお互いを吸い取っているのではないか。いや、どちらか一方がもう一方を吸い取っているだけなのかもしれない。サンちゃん夫婦と、キヌエさんの知り合い夫婦は、まさに夫が妻を吸い取っているのだ。
“サンジョ”と“サンちゃん”の不思議
キヌエさんが勝っている猫のサンジョとサンちゃんの名前が似ているのも面白い。
家でおしっこをまき散らすサンジョを山に帰してしまう(捨てるとは決して言わない)描写は、「人でなし」と評する人もいるかもしれない。人間で言う姥捨て山か。現代だと介護疲れの殺人か。
自分の心をすり減らすようなものは、とてもとても大切な存在だったとしても、大切だからこそ残酷になってしまうのだ。ちょっとばかしわかってしまう私の心もまた残酷だ。
自分らしく生きてもなお、吸い取って、似せて生きる
夫婦が似るというのは、とても雰囲気的な話だ。似ている夫婦を見て「ほら、目の距離感が」「口の大きさが」なんて具体的に似ているなんて話はしないだろう。「似ているよね」で簡潔だ。雰囲気論なのだ。
しかし、この物語は違う。もぞもぞとうごめいて、見たままに似てくるのだ。崩れるように。その物理的な描写がひどく恐ろしかった。
夫がなりたいものになるまでの、サンちゃんを引き連れていく様も恐ろしく感じられた。行かないで、連れて行かないで、引き込まれてしまわないで、とサンちゃんの腕を強く引っ張りたくなった。でも、夫がなりたかったものは山芍薬だったのだ。
やっと自分がなりたいものになれた山芍薬の夫はどこか誇らしげで、美しくて、凜としていて。なのに隣の花と並ぶとそっくりで…ああ、夫は何も変わってないのだ。
「君だけだよ、僕を受け止めてくれるのは」そうして相手を吸い取り、自分を映し出す鏡のようにして存在意義を確かにして喜ぶ。何も変わらない、買われないのだ。最後まで読んでも、やはりこの夫が嫌いだ。
またいつか、もっと先になってから読んでみたい
私は独身で、夫婦というものを知らない。将来結婚し、夫婦となり、読んでみるとまた印象が変わるだろう。衝撃的すぎるので、もう一度読むのはもうしばらく先にしたい。しばらくの間は私の中でもぞもぞとうごめいている存在なのだから。
以上です。
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aoikara