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求刑以上に重い判決はあっても良い。できないなら法律で重くすべき

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最近話題になっていたひとつの裁判。地裁での判決が出たようです。

 

www.asahi.com

私の第一の感想は「軽すぎる」でした。

 

 

“軽すぎる判決”を懸念する人が少なからずいた

この事件のことも大きく取り上げられましたし、裁判の様子もよく報道されていました。その中で被疑者に反省の色が見られないこと、事件の悪質さから、検察が求刑する「懲役17年」より重い刑を望む声が多く見られました。

 

ダウンタウンの松本人志さんが、自身の番組で、この事件の裁判についてこんなことをおっしゃっていました。

 34回刺したんでしょ?これ僕はもう34人、人を殺したと思っていいぐらいやと思いますよ。

 2017年2月26日放送の『ワイドナショー』での発言

 

私も本当にそう思います。そして、SNSなどで賛同する声もたくさん見られました。

 

“殺人未遂”の量刑の重さで良いのか

たしかに“殺人未遂”にしては重い判決のよう

殺人未遂罪での過去の判例を調べてみると、一番思い判決は無期懲役でした。しかし、それは殺人未遂のほかにもいくつかの悪質な犯罪を犯している場合。

 

殺人未遂罪のみであれば、懲役14年がもっとも重い判決。ほかは10年未満の判決が出ていることもあります。

 

ということを考えると、たしかに今回の14年6ヶ月という判決は軽いものではない。むしろ、殺人未遂罪としては重い判決と言えるのかも知れません。判例的には。

 

それでも軽いと感じてしまう

殺そうという目的で近づき、34回も刺して、それでも奇跡的に一命を取り留めて。それも殺人未遂。殺人の動機も「相手が自分の思う通りにならなかったから」。あまりにも身勝手すぎる。いや、被疑者の気持ちは完全にはわかりかねますが。

 

そこまで誰かに強い悪意を向けて、34回も刺そうと殺そうとする人が、15年も経たないうちに社会に出てくるかもしれない。出会ってしまうかもしれない。ものすごく怖いんですよ。

 

怖いって感じるってことは、軽いってことなんじゃないかと、知識の足りない私なんかは思ってしまうんです。

 

何よりも考えたいのは被害者の思い

被害者の女性は裁判で意見陳述を読み上げたそうです。読んでいても胸が苦しくなるような、ぜひ読んでほしいです。この事件を知っているなら、より多くの人に。

 

www.asahi.com

 

ファンだった男性にストーカーされ、警察に身の危険を伝えて助けを求めていた。それでも届かなくて、34回も体を刺されて、一命を取りとめた。その後も殺されるという恐怖や、容疑者への憤りが感じられます。

 

つらかったでしょう、大変だったでしょう。ついたてがあるといっても、自分を殺そうとした人が目の前にいるというのは。恐ろしかったでしょう。でも彼女は前に立った。自分自身の言葉でしゃべった。

 

そして彼女は被疑者の刑についてはこのように述べています。

 

もうこの世の中に出てきて欲しくない。今すぐに消えて欲しいです。それが叶わないならば、一生刑務所にいて欲しい。そうでないと、安心して生活できません。

今後同じような事件が二度と起きないように、私みたいに苦しむ人がいなくなるように、この事件で厳しい判決を出していただきたいです。

上記リンクの記事より引用

 

この言葉は裁判でとてもとても重く受け止めるべきことなのではないでしょうか。

 

“裁判員”であれば、そういう思いを汲んだ判決ができるかもしれない

基本的に求刑より重い判決が出ることはないそうです。それが裁判のルールなのでしょう。

 

でも、裁判員というのはいわば国民の意見。彼女の言葉を聞いて純粋に思ったことを、判決に投じることもできるのではないでしょうか。もちろん法律に則った上ですが。

 

裁判では司法は絶対ですが、それを超えた思いを託されているのではないでしょうか。だからこそ、今回も被害者の思いを汲み取って、求刑以上である、無期懲役かそれ以上の判決を出しても良いと、私は思いました。

 

でも、なかなかそれは難しいようです。

 

裁判員の方々を責める気持ちは全くない

裁判員の方々も怖かったと思うんです。被害者ではないにしても、被害状況をしっかりと伝えられて、それをやった被疑者が目の前にいて。恐ろしいと思うんですよ。裁判中に倒れてしまった方もいる、という報道もありましたし。

 

その後になんらかの刑に処すというのは、とても責任が重いことです。自身の感情だけに揺り動かされてしまってはいけないことだし。ものすごく大変だったと思うんです。

 

だから、判決に対して裁判員のかたがたを責めるのはお門違いですし、そんな気持ちは全くありません。

 

そもそも裁判員制度の目的は?

私は裁判員裁判の目的は「国民の意見を取り入れること」だと思っていました。これが勉強不足で、主たる目的は違うんです。

 

裁判というのは一般市民にとってはとても格式の高いものでなじみがない。だからもっと司法への理解を深めてもらおう、ということが大きな目的だそうです。

 

つまり、一般的な視点で裁判について思うことがあるとしても、結局は法律に則るわけですし、判決に関して裁判員がいることで大きく動くことは少ないのかもしれません。

 

被害者こそ第一と考えられる裁判であってほしい

裁判って誰のためのものなんでしょう。被疑者に正しい判決を与えるための場なのか、社会的な制裁なのか。

 

この事件で思ったのは、第一に被害者のためであるべきだということです。私たちが想像もできないような苦しみや怒りや恐ろしさを、被害者は永遠に感じなければならない。だけど、自分で何かすることはできない。

 

せめて、裁判では望むような判断がなされてほしい。被害者の感情だけで動かしてはいけないことなのかもしれませんが、まったく寄り添われていないのは法律が不十分だからではないでしょうか。

 

だとするなら、裁判員の判決でもなく、検察の求刑でもなく、法律が変わるべきです。だって、裁判ではたった一人の思いを汲み取ることもできないのですから。法律をもっと厳罰に、そして柔軟にするべきです。

 

この判決は被害者を苦しめるだけではありませんか?15年足らずの安心感はあってないようなものです。法律に則った判決は大切ですが、それだけでは誰のためにもなってないような気がします。

 

被害者を守り、被害者のための法律と、裁判であるように。でなければ、

 

司法はとても無力

 

なままですよ。

 

参考にさせていただいたサイト

 

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