人生は選択の連続だ。とか、誰かがすでに言ってそうな言葉。調べてみたらシェイクスピアの言葉だって。知らなかった。私はシェイクスピアと同じ発想をしたのかと自惚れてみるが、たぶんどこかで聞いたんだろう。その記憶の片隅の言葉。
でも、本当にそんなもので。
私は今「痩せたい」けど「食べたい」という選択に迫られている。つい最近「痩せるためにおやつは我慢するぞ」という選択をした。けど、あっさりと今「おやつを食べる」選択をしている。結果「理想体型」になりたいけど、「太る」選択をしてしまった。
人生は選択の連続だ。選択は明確な意思を持ってすることの方が少ない。知らず知らずのうちにしている。「お菓子を食べる」「お菓子を食べない」もそうだ。「お菓子を食べない」には明確な意思があるけれど、ふと「お菓子を食べる」のには積極的な選択をしていない。「お菓子を食べない」に打ち負けて、流されるように「お菓子を食べる」を選択している。
流されて選択をしている。人間全員がそうか、たぶん違う。私だって全ての選択を流しているわけではない。「この人が好きだ」と本人に言うか言わないか。この選択は十分に吟味した。吟味した結果、今は付き合っていて、だけどその「好き」が続いている今は流されているような関係でもある。「好き」は「好き」でも、「好き」に流されているのかしら。
人生は選択の連続だ。朝起きてから夜寝るまで、そしてその繰り返しの人生において、何度の選択をするのだろう。
朝、アラームが鳴る。「起きる」「起きない」の選択がある。私は考える隙もなく起きる。ごくたまに、3ヶ月に1度とか「もう寝ちゃおう」という時があるけれど、基本的には起きる。でも、強い意思を持って起きているわけではない。アラームが鳴ったら起きる、条件反射だ。実は流されている選択。
仕事に向かう。どんな順序で、どんな文章で、という選択もある。考える選択。でも、基本のルーティーンは決まっているから、流されている選択。
顔を洗おう、歯を磨こう。どのフェイスタオルを使おうか、上にのっているのでいいやと流されている選択をする。朝ごはんを食べる。何を食べようか、考える選択。
朝食後、カフェオレを飲みつつお菓子を食べるかどうかの選択。考える、けれどカフェインを求める体によって、きっと流されている。仕事をする。集中できなくなったら、「サボる」「サボらない」の選択。気持ちが続かないという言い訳をしつつもサボる、流されている選択。
昼ご飯。いつも同じメニューを食べる。流されている選択。作るのが面倒なときは、考える選択。仕事。「サボる」「サボらない」これ、午前中もやったよね。晩ご飯。作るメニューが最近も食べたな、そんなの作るのは流されている選択。
ご飯を食べて、だらだら過ごすのは流されている選択。片付けまでに時間がかかる。お風呂入ったり、歯を磨いたり、ここらへんも「時間が来たから」「ご飯を食べたから」流されている。
夜は寝ようと、明日も仕事だ寝ないとと思う癖に、だらだら起きる。夜更かし。だって目の前のことが面白いし、とパソコンやスマホを見つめて。流されている選択。寝られなくてアプリの瞑想に頼る。おやすみなさい…こんな一日。
流されるということは、「習慣」なのかもしれない。良い習慣も、悪い習慣も。一瞬の思考停止のうちに、むしろ考える前に体が動く、つまりは流されている。思考の入る余地のないところで、いつのまにか選択をしている。
人間はなぜ流されやすい。人間はなぜ習慣づけるとなかなか抜け出せない。
ふと、思いつく。人間の体内の50~60%は水。水とはなんと流されやすいことか。流れやすいところに流れるのだもの。坂があれば下へ下へ。大きな川とか海に広がっていきたい水。それが叶わなかった水は蒸発して、雨となって降り注いで、また流されようとする。
民主主義は過半数を超えれば意見が採用されるのだから、人間の過半数を超えた水の性質が採用されるのは当たり前と言えば当たり前で、人間は流されやすいものなのだ。
過半数に従う人間の本質を肯定するのは、マジョリティーを肯定することか。では、マジョリティーは正義か。
戦時中はお国のために命を懸けることこそ正義だとされてきた。しかし、戦後70年を過ぎた今、戦争に参加した人も後悔をしているし、だからこそ戦争をしないという選択を70年してきた。戦時中のマジョリティーは正しかったのか。当時は正しくても、今は違うのか。時代を超えて、正しさとは何か。
私はセクシャルの部分でマジョリティーだが、だからといってマイノリティーの人を否定することはない。私が認める認めないとかいう話でもない。LとかGとかBとかTとかXとかいろんなセクシャルの人がいて、それはいるという事実で、別に正しいとか正しくないとかはない。
社会的な正しさはあるけれど、結局の根底のところは個々人の正しさに委ねられている。では、正しさに過半数を超えているとか超えていないとか関係はないのかもしれない。だとしたら、過半数が水だとしても、人間が流されるのを肯定するのも違うのかもしれない。
本質が流されやすいという人間だとしても、50%未満でも流されにくい部分を持ち合わせている。「変わりたい」と思う人間がいるのも多数で、それは流れに逆らう行為だ。流される本質からの脱却だ。だからって異質ではない。「変わりたい」とは生きていればだいたいの人が思い巡らすことで、それもまた本質なのかもしれない。
ならば、流される選択と、流されず考える選択とは、どちらも人間の本質か。つまりは本人に委ねられているのだ。別に流されることが悪いわけでもない。良い習慣というのは身につけて、流されるが如く体が動く。それもそれで良いことだ。
朝起きて顔を洗い歯を磨く、考えなくても体が動く。人に何かしてもらったら感謝して「ありがとう」と言う。間違えたら「ごめんなさい」と言う。別に考えなくたって、流されるように行動に移すときがある。それは悪いことではない。
でも、流されていたら、たぶん願い事は叶わない。
「願い事を願うだけ」という選択をすれば、「願い事が叶わない」選択をしたのと同じなのかもしれない。流れるままにしようとしたら、何も変わらない。
例えば「ずっと彼が私を好きでいてくれますように」なんて甘い願い事をする。流されるままに一緒にいても、その願いは叶うかもしれない。
けれど、楽な方へ流されれば、私は人としても女性としても魅力をどんどん失っていくだろう。私の本質はズボラで面倒くさがりでものぐさで、だいたい似たようなことを言っているがそういうやつだから。
その自分を見て、「一緒にいたい」と相手が思うのだろうか。願い事を叶えるために、叶え続けるためには、自分自身として指針を持った考える選択も必要なのだろう。
願い事というのは、簡単に叶う訳でもないから願うもので、願ってでも叶えたいけど、願うだけで満足することもある。テスト前に計画を立てたら、勉強する前に満足してしまったような。願ったことで、思ったことで、宣言したことで「意思」は持ったという結果を手にしてしまう。結果を出したような気分だけなのに、意外と満足。実はあんまり何も変わっていないのに。
星に願いを託すのも素敵だ。流れ星を見たら、思わず願い事を唱えてしまうのは、これまた人間の本質。いや、これは刷り込みか。笹の葉サラサラと短冊に願いをしたためるのも、思いを確認することにもなるし、ロマンチック。私は好きなことだ。
ただ、願ったら、そうなるためにはお星様の力だけではきっとダメだね。考えて、考えるだけでもダメで、動かないと。そう思う七夕の夜。
というのは嘘で、七夕の夜にはこれを書いていない。正確には7月8日(日)。もっと言うなら北海道の七夕は8月7日(火)で、七夕の話題が出るたびに出遅れたようなもやっとした気分になる。全国的なイベントについて調べるという選択をできるのではないか?
という記事を書こうとしたのは、割と流されたような選択でもある。だって、はてなの「今週の話題」から連想して書いたんだもの。そこから得た発想って、流されているのか、考えているのか。難しいところ。動き出さないとな、いろいろ。
人生は選択の連続だから。
今週のお題「星に願いを」