中卒フリーライターほぼ無職。

在宅Webフリーライターaoikaraの日常ブログです。

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自立したいけど、自立したくない

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甘えて生きている私です。今回のテーマとは、いろんな意味で対極にありそうな気がします。

 

というわけで今回のテーマは…

 

自立

 

です。

 

 

「自立」とは、「自ら立つ」と書く。人間の成長として、個人差はあれど1歳過ぎには「自ら立つ」ことを習得する人が多い。では、1歳児は自立しているのか。自立していると答える人はほとんどいないだろう。

 

きっとそれはまだ親が手を引いているからだ。「こっちだよ」と誘導してくれるのが当たり前で、疑うこともなくついていく。子どもが大きくなり、その手を握らなくなっても、「こっちだよ」と導くことは続く。見えないけれど、実はその手を引いている。

 

ただ、親から手を引いてもらうことを恥じらうようになる時期もやってくる。「本当に誘導している先が正しいのか?」と疑い、悩むこともある。思春期や反抗期と言われる時期。

 

自立心の芽生えがやってくる。もう子どもじゃないと思いながらも、大人から見れば十分子どもで。大人にはなりきれないことも、自分ではわかっていて。

 

では、親から手を引いてもらうことはなくなった人は、自立しているのだろうか。多くの人が自立していないと答えるのではないか。衣食住が与えられる状況は、まだ自分の力で作り上げたものではない。保護者がいるから、何もしなくても生活できる環境はある。

 

そんな子が大人となり、巣立った場所を離れ、働いたお金で生活するようになる。いわゆる社会人となる。これを自立と呼ぶのか。「自立した」と答える人が多いように思う。親元や保護者の手から離れたときに、「自立」と呼ぶのだろうか。つまりは経済的な自立という意味で。

 

では、社会的な側面から考えるとどうだろう。社会人になったばかりの若者は、最初から職場や業界で一人前に役割をこなすことは難しい。誰かに頼り、教えてもらいながら、仕事をする。最初から全て一人で、なんていうのは難しい。

 

なかには私のようにフリーランスで働いている人もいる。私は就職をしていないし、最初から“一人で”やってきたことは事実だ。しかし、わからないことは調べ、多くの場面で関わった人たちに迷惑をかけながら、ようやっと仕事をしている。誰かが教えてくれる答えがあり、支えてくれる人がいるというのに、「全て一人でやってきた」とはとてもじゃないが言えることではない。

 

社会人になったとしても、社会の立場という意味で、社会的にはまだまだ自立てきていないのかもしれない。

 

では、立場がどんどん上になり、一人前に仕事をこなせるようになれば、社会的に自立したということだろうか。「自立した人だ」とあえて言うことでもなく、当たり前のように「自立している」ようにも思える。

 

しかし、どんな場面のどんな立場だとしても、誰かに頼り頼られて、関係性を築いていく。“つながり”がある以上は、完全な自立は難しい。

 

それは精神的な自立においても似ている。人に頼りすぎないことを「精神的な自立」と言ったりもする。精神的に自立した人と関係を築く、なんて私も文章としてよく使う。ただ、全く周りを頼らないことを「自立」と言うかと言えば、それは「冷たい」「自分勝手」と言われてしまうこともある。極端なのは自立ではないのか。その中間点はどこか。

 

そもそも、誰にも全く頼らないで生きるというのも無理な話だ。例えば、朝起きてトイレに行き、顔を洗う。水が出る。水道を作ってくれた人、今も管理してくれている人に、すでに頼っている。

 

住んでいる家も、歩いている道路も、安全に作られていることを信頼し、自分ではない知らない誰かが作ったものを頼って生きている。客観的に見て、どんなに自立している人でも、あたりまえのように誰かや何かに頼って生きているのだ。

 

では、自立とは何だろう。突き詰めていくと、自立とは誰にも何にも頼らず生きていくことか?経済的に、社会的に、精神的に、全てが自立したら、それはひとりぼっちで生きていくことではないのだろうか。それは“自立”ではなく“孤立”ではないか。

 

自立できないことを、さまざまな言葉で言うけれど、知識のない私が考えた対照的な言葉は“依存”。しかし、依存の反対は自立ではなく、まさに孤立なのではないか。

 

私たちは“依存”と“孤立”の狭間で生きている。その間にそれぞれの“自立”があるような気がする。依存しすぎても孤立しすぎても、人は生きていけなくなってしまう。ほどよい依存と孤立の塩梅というのは人によって違う。

 

自分が「自立している」と思っているなら良いのかと言われると、ものすごく誰かを頼っていて、傍から見ると「全然自立していないよ」と思われているかもしれないし。他者が「自立」を認定するものではないけれど、自分で客観的に認定するのも難しい話で。

 

実家暮らしというだけで「自立してない」と指摘する人もいる。親に住居を提供してもらっているじゃないか。家賃も生活費もすべて出しているとしたら?家事もやってもらっているじゃないか。自分の家事はすべて自分がやっているとしたら?精神的に自立できていない。などなど、いくらでも「自立してない」認定をされてしまう。

 

考えてみると「自立する」も突き詰めると孤立だし、「自立してない」も周りに迷惑をかけてしまうし、いったいどうやって生きていったら良いものか。

 

あれあれ、自立ってもっとポジティブなことじゃなかったか。私はどうもこんがらがってしまう。よし、基本に立ち返ろう。

 

本来は最初にやるべきことなのだが、ようやく私は辞書を開き、「自立」という言葉の意味を調べる。

 

他への従属から離れて独り立ちすること。他からの支配や助力を受けずに、存在すること。

出典:小学館 デジ タル大辞泉

 

他の助けや支配なしに自分一人の力だけで物事を行うこと。ひとりだち。独立。

出典:三省堂大辞林 第三版

 

「独り立ち」や「独立」と言う言葉が出てくるので、「独立」という言葉も調べてみた。

 

他のものから離れて別になっていること。

他からの束縛や支配を受けないで、自分の意志で行動すること。

出典:小学館 デジタル大辞泉

 

他と離れて、一つだけ立っていること。また、他のものとはっきり別になっていること。

出典:三省堂 大辞林 第三版

 

これまでの意味を整理する。全く同じことなのだけれど、それはポジティブにもネガティブにも捉えようがあると感じた。

 

「自立」という言葉をポジティブに捉えるとしたら、他からの従属も支配も束縛もされず、自分の意思と自分の力で行動し、存在すること。

 

「自立」という言葉をネガティブに捉えるとしたら、他からの助力を受けず、他とは離れ、一人でいること。

 

もしかして、ポジティブかネガティブかどちらかの意味が正しいのではなく、どちらも正しいのではないかと思えてきた。よく考えると、自立には、良さも大変さも、両方の局面があるのかもしれない。

 

他からの従属も支配も束縛もされないかわりに、頼ることがないから助けも得られない。自分の意思で動ける自由さはあるけれど、自分の力でのみ行動するのだから、他とは離れて一人になってしまうこともある。

 

自立するとは自由であり、同時に孤独による寂しさもある。

 

自立するのは大切だ。何にも支配されず、自分の意思で生きていくことは、自由で開放的だ。誰かに頼りっぱなしでは、その誰かの何かを犠牲にしてしまう。自分の自由と他者の自由のために、自立し合える関係性は、一種の理想だ。

 

一方で、何も頼らず自分の力で行うのはリスクが大きい。自信もなければいけない。孤独さがとてつもなく寂しいときもあるだろうし、重荷に耐えられなくなりそうなこともあるだろう。

 

私は、自分の力で生きたい。それはまさに「自立したい」という意思だ。けれど、経済的、社会的、精神的な面で自立しても、やはり誰かや何かに頼ったり頼られたりする関係性も大切なように思う。そんな自立以上自立未満な、半自立が私には合っているような気がする。

 

私はだらしがなくて自立にはほど遠い人間だからって、自立を否定的に捉え、自分を正当化しようというわけではない……わけではないけれど、やっぱり甘えている自分もいるな。反省せねば。ダメ人間なりにも、せめて半自立はしたいと思う。

 

あ、賃貸関係ないね。でも、まあ、それが「わたしの自立」です。

 

 

aoikara

 

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