ZOZOTOWNの前澤社長が自身のTwitterで、100人に100万円あげるというようなことをツイートして話題になっていますね。リツイートしたら抽選で当たるよという。
該当ツイートを載せるのもリツイートじゃないけど拡散するところがリツイートっぽいから載せない。文章がごちゃごちゃ渋滞。
しようかな、しないかな、と思って、結果リツイートしなかった。なんだろう。
そもそも前澤さんは好きでも嫌いでもない。ニュースになったことは目にするけれど、能動的に情報を集めるわけではなく、ファンでもアンチでもない。
Twitterでフォローしないくらいの関心の低さ。好きとか嫌いとかではなく、苦手にちょっとだけ寄っているのかも。まあ私の苦手センサーは誰かしら何かしらに触れるから、特別に嫌っている人ではないという弁解はさせてほしい。お金持ちすぎて、想像がつかない。
100万円というお金は、欲しいは欲しい。お金はあった方が良いし。私は貯金が趣味だし。
でも、「ただでお金欲しい!」って堂々と宣言するいやらしさみたいなのが出るのが、自分がやるのは嫌だなぁと思っちゃった。いや、リツイートする人は全然しても良いし、面白い企画だしリツイートしたらいいんじゃないかな、とも思う。それは本当に否定する気持ちはない。
本当にお金が必要だったら、どんな方法でも良いから求めるというか。良い意味でのお金への執着があるというか。だからリツイートするのよね。そういうのがないのは、あるい意味で金銭的な余裕があるわけだから、それもどこかいやらしいなと思ってしまう自分もいる。いや、別に余裕があるわけではないけど、窮しているわけでもないからな。
良いことか悪いことかはわからないけど、私はお金に対して一種の潔癖さがあるのかもしれない。たとえ100万円を受け取っても、私が主体の100万円ではなく、前澤さん主体の100万円になるんだろうなと思うし。
私が持っても、前澤さんの主体性からは逃げられなくて。受け取って、主体を自分に変更できる人もいるけど、それができないのが私みたいな人間で。自分、不器用なんで。
まあ、そんなこと言い出したら、世の中のお金全部が“誰か”主体のお金だったわけだし。じゃあ、なんで前澤さんの「100万円あげる」ツイートだけ、前澤さんの主体性から逃れられないのかというと、「借りを作りたくない」からなんだろうか。何だろう。シンプルに「いらない」のかも。
明らかに私が頑張って得たお金ではないとも思ってしまう。道端で落ちてた100万円を拾って懐にしまう感覚。犯罪ではないから、言い方が適当ではないのはわかった上で、感覚としての話で。
でも、もし私が仕事をしている先の社長さんが同じツイートしてたら、「ライターに還元してくれよ」って思っちゃうかもな。同じ思いで「社員に還元してくれよ」っておmとている人はいるかもしれない。
別に知らなかったふりもできたし、触れなきゃ良いんだけど、企画を知っていて「私はリツイートしなかった」と言っても良いかなとも思った。企画自体を否定するわけじゃないし、私はやらない。それだけ。そういう自意識の出し方。言わなくても良いのにな。どうして書いちゃったんだろ。
前澤さんが嫌いとかではないのよ。好きでもないし。だから別にアンチの人にもてはやされたくまいし、信者の人に敵対されたくもないの。変なところに八方美人出た。結果的に全員にそっぽ向かれるやつ。そーか、四面楚歌。
あ、でも剛力ちゃんかわいいから、剛力ちゃんに会える権利とかだったらリツイートしたかも。でもそれって剛力ちゃんが前澤さんの所有物みたいで、それはそれで嫌だな。やっぱり却下。
剛力ちゃんにはいつか何かしらで、自力で会おう。そして、100万円も、自力で稼ごう。
前澤さんは「夢を持つ人がこんなにいる」という気づきがあったようだけど、私としては自分のスタンスを再認識できた、という気づきがあった。あ、でもね、いつでも寝返る余韻は残しておきたい。だってお金はあって困ることはないからね。うん。
良い企画かもね。いろんな方向に世の中を動かす人なのは間違いないね。良いか悪いかは別として。
さあ、私は私で動く。そう再認識できたのは、それだけでも良い収穫だった。いえい。
aoikara