原作を読んでからおよそ6ヶ月、ようやく映画を見ることができた。原作の存在感はそのままに、違いもありながら不足はしておらず、同じように心をざらつかせる作品でした。
※作品のネタバレを含みます。
あらすじ
エリートサラリーマン家庭であった田向一家惨殺事件から1年経ち、事件は犯人が見つからないまま迷宮入りしていた。その時、ある記者が、田向夫妻の同僚や学生時代の同級生、元恋人などに、夫妻との思い出や人柄についてインタビューして回る。すると、一見理想的な夫婦と思われた二人の本性が現れてくる。
引用元:愚行録 - Wikipedia
観たキッカケ
半年ほど前に原作の同名小説『愚行録』を読み、同じ頃映画が公開されていることも知った。ずっと観たいと思ってようやく観ることができた。
感想
なんとも後味が悪い
とにかく後味が悪い。観た後に嫌な気持ちになるという意味ではなく、観ている間ずーっと後味が悪い。その上、救いがない。だからといって悪い映画だという意味は全くない。そういう映画なので。原作の後味の悪さが、映画でもしっかりと表現されていたように思う。
原作と比較して、足されている部分と引かれている部分があった。
足されている部分
足されていたのは、冒頭と最後の“バスで席を譲る”シーン。
冒頭はバスに座っている田中武志(妻夫木聡)が、年配の女性に席を譲れと会社員らしき男性に詰め寄られる。田中は席を譲るが、足を引きずっている。譲れと言った男は気まずそうな表情になり、思わず田中から目をそらす。歩きづらそうな田中はバスから降り、普通に歩き出す。脚が悪いフリをしていただけだった。この田中の行動は賛否がありそうだけれど、私は“賛”の方だ。スカッとした。偽善に一矢報いたような感じだった。
この冒頭で感じるのは、なんとも言えない居心地の悪さ。「譲れ」と説教じみていた男が悪いのか、わざと足が悪いフリをした田中が悪いのか、何が悪かったのか。誰が愚かなのか。「この映画はこういう映画ですよ」という自己紹介だったのかも、と見ああとでは思う。
そして、最後のシーンは、田中がバスで座っているという同じシチュエーション。しかし、今度は自ら席を譲る。冒頭と対比になっている。
この物語を通した田中が変わったからではないと思う。譲った人が違ったのだ。冒頭は老人で、最後は妊婦だった。老人だから譲らなかったのではなく、妊婦だから譲ったのだろう。譲らなければならない、と田中は思うほかなかったのだろう。
引いている部分
原作から引かれている要素は
- 光子(満島ひかり)の娘の父親は田中だと明記されていること
- 田中が宮村淳子(臼田あさ美)を殺した事実と理由を光子が知っていること
この2点。
1.の娘の父親に関しては、最終的に田中なのではないかと匂わせている演出はある。しかし、はっきりと誰かが口にしたり明かすことはない。見ればわかるとは思う。
2.原作では事件後も田中と光子はしっかりと話し合っている。核心部分にも触れながら。だから、光子が田向一家を殺して、それを隠すために田中が何か知っている人物を探して宮村を殺したことも話す。しかし、映画で光子が話をするのは基本的に医者の杉田茂夫(平田満)。だから、二人が宮村が殺された事実について話すことはない。
この2点が明確になっていない(とはいえ答えはハッキリとしているようなものだけれど)ことで、映画だけ見た人はいろいろ予測できる余韻を楽しめるだろう。
そして、気になって原作を読んだ人は答え合わせができる。私は原作を読んでから映画を見たので、この楽しみ方ができないのは少し残念。とはいえ、原作を知らなければ映画を見なかっただろうから、それも巡り合わせ。
演出
種明かししてしまう映画ならではの面白さ
原作では2つの事実が最後に明かされる
- 田向一家殺人事件の犯人は誰なのか
- インタビュアーが誰なのか
これがダブルでやってくる。私としては、最後に全て知ったときに関係性の輪郭がはっきりと見えて、ぶわああああっと鳥肌が立つような感覚がすごく好きだった。
ところが、映画ではインタビュアーが田中武志で、光子と兄妹であることが冒頭で明かされる。公開前から明かされていた。つまり、謎の一つが最初からないのだ。
だからといって、映画としての新鮮さは失われていない。それでもきちんと謎めいていて最後まで目を離さずに見たくなるようにできているのが、逆に見事だなと感じた。顛末を知っていても、全てわかったときはぞっとする。同じように。
映像と音楽の不快感
とにかく居心地の悪い映画だ。家族で一緒に見ようとはとても言えない映画。できれば一人でこっそり見て、存分に居心地の悪さを背負い込みたい感じ。
それは映像の暗さ、音楽の重さが大いに関係していると思う。まず、ずっと画が暗い。そして、ときどき現れる光子を多う男達の手手手…。気持ち悪さが生々しい。音楽も落ちていく思い音で、気持ちが暗くなる。
物語だけでない演出の不快感は、映画だからこそできたことだなと感じた。この作品ではものすごく大切なのが“不快感”だから、それはそれはえぐいくらいに表現されていた。
キャスト
田中光子/満島ひかり
満島ひかりさんが出演している作品を観る機会が多かったので、うまい女優さんだということは知っていた。それでもこの作品を観てやっぱりうまいな、と思う。
生、というのか。“演技してます”感がゼロなんだよね。どんな役でも。“演技してます”という演技が悪いわけではなくて、それはそれで虚像として見られて面白い。でも、満島さんはそれがなくて、実像を見せられている気分なのだ。だから、今回のように重く位作品は、見ているとつらい。
罪の独白シーンは誰に語りかけていたのだろう。あそこにはいなかったけれど、田中だったんじゃないのかなと思う。大好きな大好きなお兄ちゃんだったから。
一番印象に残っているのは、娘が死んだときに光子が吹き出すように笑うシーン。驚くほど突然で、泣くでも怒るでもなく、その場面では考えられないような笑い。なぜ光子は笑ったのだろう。人生があまりにも可笑しかったのだろうか。
人間の脳内には楽しいこと:つらいこと:どちらでもないことが、6:3:1の割合でしか記憶できないと聞いたことがある。光子にとってつらいことなんて3割以上は当然あって、今回のことで溢れてしまって、楽しいと思うしかなくて、本能的に出てしまった笑いなのかも、なんて思った。
田中武志/妻夫木聡
満島ひかりさんに比べて、妻夫木さんが出演している作品はあまり観たことがなかった。有名な作品も多いけれど、触れる機会がなかった。だから、妻夫木さんの演技についてはあまり知らなかった。
初めて本格的な演技を観たけれど、うまい。自分の感情をほとんど表すことがないのに、感情を感じる。表情だけで語る。すごくうまい。最後に妹と対峙して「秘密」を話し合うときの真正面からの表情、なんともいえない顔だった。切なさと、怒りと、憎しみと、悲しさと、それでいて前にいる妹への優しさも残っているかのような。全てをためこんだ表情がうまくて、見るのが来るしかった。
この映画は誰のものかと聞かれると、満島さんもだけれどやはり妻夫木さんのものだと思う。
“愚かな”人たち
登場人物は、みんな原作を読んだイメージのまんまだった。殺される夏原友希恵役の松本若菜も、原作のイメージぴったりだった。美しくて、良い意味でも悪い意味でも女らしくて。賢くて、そして愚かで。
特に尾形孝之を演じた中村倫也さんの変貌っぷりが良かった。私が観ている作品に出てくる中村倫也さんはこぎれいな感じ。薄顔で女性から好かれるような。今回はそういうイメージと全く違っていた。今回の役柄はどちらかというと垢抜けていない感じの。だからこそ、信じきって騙されている愚かさがある。若いときは軽さと爽やかさがあるのに、年を取ったときの小汚いおじさんの感じが、きちんと「ああ、この人が年を重ねたらこんな感じだろうな」という雰囲気が出ていてすごいなと感じた。
もちろんみんな、みんなきちんと愚かだ。
濱田マリと平田満の安心感
緩急があるとすれば、この物語は緩やかに流れているのにずーっと急、というか窮。愚かでない人で本当に優しく温かいのは濱田マリが演じた弁護士と、平田満が演じた医師ではないかと思う。ドラマや映画で脇役の常連であるこの二人が醸し出す安心感があった。ずーっと張り詰めているわけではなくて、愚かではない二人がいて良かった。
統括
演出と演技力が相まって、登場人物たちの“愚かさ”を嫌というほど感じられた。本当に共感できない人も多い。見ているだけで腹が立つ。でも、少しわかってしまうような人もいる。全ては理解できないけれど、その気持ちのその部分はなんとなくわかってしまうような。それで、私も愚かさを自覚してしまうのだ。
田中と光子だけが、こうなっても仕方ないと思える愚行だったと思う。それでも愚行には変わらない。でも、じゃあどうしたら良かったのか。こうするしかなかった。二人だけは。それでもきっとこの二人が一番不幸なんじゃないか。
救いがなさすぎて、見ていて本当に心が疲弊してしまう。でも、そういう作品だから良いのだと思う。原作の世界観をしっかりと表現していて、良い映画でした。
以上
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