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【読書感想文】カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』生々しさと美しさの共存

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海外の美しい絵が描かれている絵本を読んでいるような、不思議な物語。でも、そこにあるのは生々しい人間模様と感情。近未来的な世界観と、誰かから話を聞いているようななじみやすさ、リアルな空気感が共存している。

 

ここに描かれる彼らが“人間”でなくて、なんだろうか。

 

※ネタバレを含みます。

 

あらすじ

優秀な介護人キャシー・Hは「提供者」と呼ばれる人々の世話をしている。生まれ育った施設ヘールシャムの親友トミーやルースも提供者だった。キャシーは施設での奇妙な日々に思いをめぐらす。図画工作に力を入れた授業、毎週の健康診断、保護官と呼ばれる教師たちのぎこちない態度…。彼女の回想はヘールシャムの残酷な真実を明かしていく―全読書人の魂を揺さぶる、ブッカー賞作家の新たなる代表作。 

引用元:内容(「BOOK」データベースより)

 

感想

ずいぶんと遅くに手に取って

世界的にも有名な本作のことは以前から知っていた。知ったきっかけは原作ではなく、同名タイトルの日本のドラマから。綾瀬はるかさんが主演し、三浦春馬さんや水川あさみさんも出演していた。当時ドラマを観たわけではないが、印象的なタイトルだったので覚えていた。

 

それから数年が経ち、作者のカズオ・イシグロさんがノーベル文学賞を受賞されたことから、作品に興味を惹かれる。そして、まずはドラマから観た。それが今から一年ほど前のこと。

 

そして一年ほどが経った今頃になって、ようやく原作を手に取った。ドラマの記憶も薄れてきて、原作の描写と重ねようとしても思い出せないくらい時間が経っていた。時間が空いたのには理由はない。けれど、そのおかげで原作だからこその中身に入り込んで読むことができた。

 

空想的で美しい世界観

海外の著者が執筆し翻訳された本というのは、独特の文体がある。一度翻訳されたのだな、ということがわかる文体だ。とはいえ私はハリー・ポッターくらいしか海外の小説を読んだことがないので、偉そうに分析できることではない。

 

本作もそんな独特の文体だと感じた。海外が舞台というだけで、どこかおとぎ話のような空想的な世界観が広がる。本作もそうだった。まるで海外の美しい絵で描かれている絵本を読んでいるような、現実とは違う雰囲気を感じた。

 

断片的につむがれる記憶は、まるで誰かから話を聞いているよう

本作は主人公であるキャシーの目線で、自分の育ったヘールシャムという施設での人間模様や思い出を回想する物語だ。

 

一般的な物語だと、年月を順序立てて描かれることが多い。幼い頃から青年期を経て今がある、というような。しかし、本作はちょっと違っていて、キャシーが思い出すままに記憶を語っている。

 

大きな構成としては年月を順序立てて語ってはいるが、ときに話が先に進んだり昔に戻ったりする。人が思い出話をするときに、話していることがきっかけでまた新たな記憶が蘇り、「そういえばこんなこともあって…」と新たな思い出を話すように。

 

とても緻密に構成された小説ではあるはずなのに、それを全く感じさせない自然さがあったのは、あえて順序立てない順番にあると思う。キャシーの話を聞いているような、誰に聞かせるはずもなかったことを聞いてしまっているような、そんな“なじみやすさ”を感じた。

 

生々しさでリアリティが増す

空想的でありながら、自分に語られているようでなじみやすいので、物語に入っていくのは簡単だった。ただ、おとぎ話を聞いているように穏やかな心地だったわけではない。明らかに違う。

 

それは、話される記憶というのが生々しかったから。良く言えばみずみずしかったとも言い換えられる。物語上はこうした方がきれいに収まるということも、あまりきれいに収まらない。そこが妙に現実世界とリンクしている。思った通りうまくいくなんて現実ではそうそうない。

 

空想的な世界観、なじみやすい語り口、それでいて生々しささえ感じるようなリアリティが共存していて、とても不思議だった。

 

残酷な運命をどう思う?

物語の核となっているのは、キャシーたちに訪れる残酷な運命。現実世界とは明らかに違う、しかしこの先絶対にないとは言い切れないような設定がある。技術の進化でそんな未来とは遠ざかりつつあるけれど、想像として考えたことがある人は少なくはないのではないか。

 

そのせいで、キャシーたちは“人間”とは思われない。それは悲しいことだけれど、私だったらどうだろう。

 

仮に“人間”側の立場だったとして、どう思うのだろう。おそらく「かわいそう」と建前として言う。そう思っている本音もある。「かわいそう」と言う時点で、下に見ているのだと自己嫌悪もある。内心は「怖い」「不気味」と思っている。「やっぱり“私たち”とは違うよね」とも。心の中の思いは他人の目を気にして自分以外に明かさないだろう。

 

私が“キャシーたち側”だとしたら、生まれたときからそういう運命だったと決まっているのだからと、今より最期を冷静に受け止められているのだろうなと思う。それはもはや洗脳に近い制度だけれど、抗えないからこそ受け止めるだろう。今の私より、よっぽど立派だったかもしれない。

 

最初はキャシーたちがそんな存在だとは知らずに読んでいて、途中で真実を知って驚く。そして、キャシーたちを「人間ではない」と考える人がいることにもっと驚く。

 

だって、私が今読んできたキャシーや周りにいる人たちの思いや行動や考えが、人間ではないとは全く思えないから。読んでいる間に思う、「私たちと何が違うのか」と。人間でなくて、なんなのか。

 

“違和感”の正体があまりにも人間らしい

人間とは命とは、そんなことを考えさせられる今作だが、私が最も印象的だったのは別の部分だ。それは、とある違和感。

 

キャシーには同い年のルースという女の子と、とても仲良くなる。そして、みんなのいじめられっ子であるトミーのことも、どこか気に懸けて仲良くしていた。成長して、ルースはトミーと恋人になり、キャシーは二人とさまざまな思い出を共有し、ときにぶつかることもある友達だった。

 

そんな三人を中心とした人間模様が描かれる。それは、まるで当たり前のように進んでいく。ただ、私はどこかで違和感があった。「あれ?」とは思ったけれど、あまりにも当たり前だから、「そういうものか」と流し、違和感をはっきりと気づくこともなかった。

 

そして、最終的にその違和感の正体が明かされる。そうか、私がずっともやもやしていた感情はこれだったのかと気づく。明かされてすっきりとした感情と、もう取り戻せないという消失感とが複雑に入り交じる。

 

特別に素晴らしく良いわけでもなく、全てが嫌になるほど悪いわけでもなく、どちらともなく漂うこの感情は、とても人間らしいと私は感じる。

 

幸せなのか

ハッピーエンドとは言えない。でも、究極に不幸とも思えない。なんとも言い難い終わり方だった。きっとかわいそうだと多くの人は言うけれど、本当にかわいそうなのか。人間ではないと言われる彼らを、私はとても人間らしいと思う。

 

この先にどんな運命が待ち構えていようとも、今ここに生きていることは素晴らしいのだと、それだけはたしかだと思わされる本だった。

 

 

aoikara

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