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【読書感想文】吉野源三郎『君たちはどう生きるか』この本は“教え”ではなく、始まり

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2018年に最も売れた本は、本書が原作の漫画らしい。多くの人に読まれていることは、ずっと以前から知っていた。その理由が知りたくて、手に取った。目から鱗が落ちるような、画期的な生き方が記されているわけではない。きっと、題名でもあるこの一言に尽きる。この本を読んで、さあ、『君たちはどう生きるか』。

 

 

※ネタバレを含みます。

 

あらすじ

貧困、いじめ、勇気、学問…。今も昔も変わらないテーマに、人間としてどう向き合うべきか。時代を超えた名著、新装版で再び。

引用元:内容(「BOOK」データベースより)

 

感想

道徳の教科書を読んでいるような

15歳のコペル君が学校を中心とした人間関係や経験の中で、さまざまなことを考え、叔父さんに生き方を説かれる物語。一つの出来事に対して一つの教訓があり、短編が連なり一つの作品となっている。

 

というようなことを、以前テレビで見て、内容を知った。私はかなり中身がひねくれているので、なんでも知っているような顔で甥に説く“叔父さん”を、あまり好意的に見られなかった。

 

あくまで、それは叔父さんの生き方ではないのかと。子どもに自分の考えを押しつけている感じがして、嫌だったのだ。

 

そんなちょっとした反発心を抱きながら、実際に読んでみたが、叔父さんへの嫌悪感が出ることはなかった。コペル君は父親を早くに亡くしていて、叔父さんがそんな父親の教えを伝えたい気持ちもあったのだろうと察した。

 

また、コペル君は自分自身でさまざまなことに気づいている。そんな“気づき”は、15歳という少年にとっては漠然としていて、世の中の真理を肌で感じていることだ。

 

叔父さんは読者にその感覚を言葉として伝えているようで、さらにコペル君にもっと先を見据えるヒントをくれているように感じた。

 

なんとなく道徳の教科書のようにも思えた。ゆとり世代で育った私は、道徳の時間があり、道徳の教科書もあった。あまりきちんと読んだことはないが、道徳の時間というのは、この本を読んだときと同じような気持ちになる。

 

一つの章には必ずテーマがあり、なんとなく答えがある。答えというよりかは、生き方としての導きか。「こうしなければならない」ということではないが、「そうかもしれないな」と自分とも照らし合わせて考えられる、当たり前のことばかりだった。

 

大人として生きること

個人的に印象に残ったのは、豆腐屋の浦川君。学校に来ない間、家の者に代わって仕事を手伝っていた。コペル君は父親がいないといってもかなり裕福な家庭で、自分と浦川君との暮らしのギャップに驚く。ただ、そこをバカにしたりはしない。哀れんだりもしない。

 

さらに、叔父さんは浦川君とコペル君には、決定的な違いがあると説いた。その答えを私自身は導き出せなくて、理由を読んでなるほどと思った。たしかに、決定的な違いだった。

 

そして、おそらくは子どもと大人の違いでもあるのではないかと思った。コペル君はまだ子どもで、浦川君は大人。大人が動かしていく社会で、それは必要なことだから。当たり前のようで、改めて“生きる”ことの一つのはたらきを知ったような気持ちになった。

 

“どう生きるか”は時代を超える

本書はとても古い本だ。刊行されたのは1937年、戦前のこと。私の父や母さえ生まれていない。祖父母が生きていた時代だ。

 

当時と今とでは違うこともたくさんある。学校の成り立ちだとか、街並みだとか、男女の性別だとか、人間関係であるとか。日本が大きく変わる戦後よりも前の時代だから、ジェネレーションギャップはある。

 

時代が違えば社会が違い、生き方も違うだろう。けれど、ここで導かれる“どう生きるか”は、「昔の考えだ」とはならない。今にも通じていることがたくさんある。いつの時代も、人間が求める“どう生きるか”は同じなのかもしれない。

 

ひねくれ者の私が覚えた違和感

あまりに賞賛されている本だからこそ、うがった見方をする者もいる。いわゆるやっかみだ。私もひねくれ者ではあるので、ちょっとばかりくだらないやっかみも書かせてもらいたい。

 

「素晴らしい本」という前提で読んでいながらも、若干「ん?」と違和感を覚えた部分もあったので、個性を出す側面として、書き記しておきたい。

 

池上彰さんのまえがきはいらない

新装版の本書には、池上彰さんのまえがきがある。自分と本書との出会いと、古い時代に書かれた本であるからという前提を話し、現代から古い時代へのギャップを上手に埋めてくれているように思える。

 

しかし、それはずるいと思ってしまった。“池上彰”という人の名前だけで、納得させられてしまう人も多い。「池上さんが良いと言うのだから良い本なのだろう」という先入観があれば、嫌でも良い本として読んでしまうだろう。あとがきならまだしも、まえがきであるし。

 

そして、本当に素晴らしい本は、人から素晴らしいと言われなくても、賞を受賞していなくても、当人にとって素晴らしいはずだ。時代背景など前置きがなくても、真に訴えたいことが伝わっていれば、心に響くはずだ。

 

この本は“売れている”ことで、「素晴らしい本」というフィルターがある。しかも丁寧な解説までされて、それで読んで「素晴らしい」と感想を抱くのは、導かれているようで嫌なのだ。

 

良い本だと思う。思うからこそ、解説はいらない。ありのままに読んで、人の心に響いたからこそ、多くの人に読まれているのだから、ありのままに在れば良い、と私は思ってしまう。

 

なんの先入観もないまま、偶然この本を見つけて、「あ、良い本を見つけた」という感覚に浸りたかった。手に取った動機からしてそれは無理なのだが。

 

そういった本を読むという、一期一会の喜びを削られるような気がしてしまうから、できれば池上さんのまえがきなしで読んでみたかった。

 

男女差別ではない時代を感じる「男のくせに」「女のくせに」

本書に、「男のくせに」「女のくせに」という文章が出てきて、ひやっとしてしまった。差別的な表現ではなく、肯定や否定の文脈の中で使われているわけでもなく、あくまで説明としての表現なので、決してひどい表現ではない。

 

例えば「男のくせにエプロンをして」。当時は男子厨房に入らずといったところだろうから、非常に珍しい光景だったことを思わせる。他には「女のくせにズボンなぞ履いて」だったか。これもまた時代背景を考えると、珍しいことだったのだろう。

 

だからといって、エプロンをした男性を否定しているわけではないし、ズボンを履いた女性は人として魅力的に描かれていた。

 

とはいえ、「~くせに」は強い表現なので、現代の感覚で生きている私としては、ひやっとしてしまった。当時の感覚からすると、受ける印象がもう少し柔らかい表現なのだろう。

 

女性言葉っぽく聞こえる「~かしら?」を男性が使っていることも多く、今とは言葉の使い方が違ったことも思わせる。

 

ある意味で性別というのは時代と共に捉え方が変わったし、まだ変わっている最中でもある。そして、未だに性別による問題や諍いはたくさんある。変わっていることもあれば、変わっていないこともある。

 

「男のくせに」「女のくせに」という言葉に違和感を覚えたように、「男性的」「女性的」という言葉も未来にはなくなっているかもしれない。未来の性別はもっと多様になっているのかもしれない、とも思った。

 

不勉強なせいでナポレオンに心酔できない

ナポレオンについて非常に詳細に書かれている章がある。私は不勉強なこともあり、ナポレオンに対して偏った見方をしていた。

 

市民のために闘っていたのに自らが皇帝になり、激怒したベートーベンが自身が書いていた交響曲を「ナポレオン・ポナパルド」から「英雄」に変えたとか。ナポレオンと言えば馬に乗った肖像がが有名だが、実際は小男でロバに乗っており、似ても似つかない姿だったとか。晩年は寂しく惨めだったとか。

 

彼が英雄と呼ばれる所以を全く知らずにいたので、本書で初めて知ったようなものだった。本当に不勉強で恥ずかしい。ただ、それでも気になったことがあった。

 

ナポレオンの栄枯盛衰について語られているので、賞賛ばかりしているわけではないが、偉大な人間として描かれていることには間違いない。ただ、ナポレオンとしてではなく、当時の市民の目線を持ってみることを提案しても良いのではないか、とも思った。

 

この本は“教え”ではなく、始まりとして

この本に書いてあることはとても立派だと思う。この本を指針とする人もいるだろう。しかし、私が思うのは、この本は決して“教え”ではないということ。世の中とは、生きるとは、「こうすべきだ」ではなく、「こういうことが待っているよ」と伝えている。

 

この人はこんな生き方をしている。この人はこう、この人は…。そして、最後に問いかける、「君たちはどう生きるか」と。

 

最後の問いかけを読んだとき、たしかに私に刺さった。「じゃあ、私はどう生きるんだ」と。「どう生きたいのか」と。考えることから、“生き方”は決まっていくのではないかと思う。

 

この本の通りに生きていけというわけではない。この本だけが答えではない。この本は“生きる”ことを示す。“生きる”人達を見せる。それだけ。そして、読者にとってはそこから、なのだ。

 

だから、これからどう生きるかという、読み終わってからが読者にとっての“始まり”なのではないか。

 

だから、私はたぶんこの本の通りには生きない。全て同じようにはしない。だって私は私で、この本はこの本で、コペル君と私は別の人間だから。得ることはあっても、私に消化させたら、それは全く違う方法にもなる。

 

この先、迷ったときには、自分にこう問いかけたい。「私はどう生きる?どう生きていきたいんだ」と。

 

 

aoikara

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