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【読書感想文】又吉直樹『火花』この男たちを愛せるか

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この本を面白いと思えるかどうかには、いろんな要素があるように思う。私は、「この男たちを愛せるかどうか」が判断基準になるのではないかと考えた。そして、私は、この男たちになんとも言えない「いとおしさ」のようなものを感じた。

 

※ネタバレを含みます。

 

あらすじ

売れない芸人の徳永は、天才肌の先輩芸人・神谷と出会い、師と仰ぐ。神谷の伝記を書くことを乞われ、共に過ごす時間が増えるが、やがて二人は別の道を歩むことになる。笑いとは何か、人間とは何かを描ききったデビュー小説。第153回芥川賞受賞作。 

引用元:内容(「BOOK」データベースより)

 

感想

芥川賞作品を読む

私は純文学が苦手だ。面白いと言われる作品は本当にたくさんあるけれど、私の語彙力のなさと文章における咀嚼力のなさで、読み解けずもやもやとしてしまう。芥川賞よりは直木賞の小説の方がとっつきやすいタイプの読書家だ。

 

『火花』は文学的に評価されると言われている芥川賞を受賞したことで有名になった作品だ。そのため、最初は「読めるだろうか」という不安もあった。「面白くなかった」「途中で読むのをやめた」という声も聞いたからだった。

 

ページを開いたとき、確かに芥川賞らしい言葉の選び方や文の運び方を感じた。要は「難しいな…」という印象。表現の羅列が並ぶと、ぶわっと圧倒的な向かい風のようなものを感じてしまう。

 

それでも、「読みたい」と思った。物語として続きが気になった。強い向かい風を感じながらも、ページをめくりたいと思った。そうして読んでいくうちに、文章にも慣れ、スムーズに読めるようになった。

 

純文学作品で最初は読みにくくて途中からすいすい読めてしまう、なんていう経験は初めてだったので、それもまた面白い経験だった。

 

この男たちを愛せるか

「読みたい」と思った理由の一つには、主人公の売れない芸人・徳永が師と尊敬している「神谷」に興味を持ったからだった。この神谷を好きになるか(気になるか)そうならないかで、物語を読み進めるかどうかも変わってしまうのかもしれない、と感じた。

 

たぶん、苦手な人は苦手だ。神谷という人がそうであるように、小説を読むにあたっても同じように苦手意識を感じてしまう人がいるのではないかと思った。

 

主人公の徳永も、神谷も、種類は違うが主流になれない人間のように思う。ある種の“生きづらさ”のようなものを感じているような。

 

徳永が自分の性質について気づいた、こんな一文がある。

いや、芸人にとって変態的であることが一つの利点であることは真実だけれど、僕はただ不器用なだけで、その不器用さえも売り物にできない程の単なる不器用に過ぎなかった。

 p.61

 

なんというか、私にはこの心境がとても理解できてしまうのだ。生きづらさのようなものに共感してしまう。私も“そちら側”にはいけない人間だから、なんだかわかる。徳永はこの性質を神谷との決定的な違いだと説明しているが、神谷はまた別種の“生きづらさ”があるように思える。

 

私も、徳永や神谷も、“そちら側”にはなれない。だから、徳永や神谷が近い位置にいるような気がして、読み進めたくなってしまったのかもしれない。だから、この男たちを愛せれば(恋慕の意味ではなく)、この小説も読みたいと思うのではないか。

 

私の場合は「気になる」とか「ほっとけない」ような感じで、達観すると「いとおしい」感情にも似ている気がする。

 

徳永の溢れた思いは本音であり本音ではない

売れない芸人の徳永だったが、少しずつではあるがテレビでも漫才をさせてもらうようになっていた。そして、やっと自分のスタイルでの漫才ができるようになった。と思っていた。その漫才を見た神谷は笑わなかった。

 

 僕は神谷さんとは違うのだ。僕は徹底的な異端にはなりきれない。その反対に器用にも立ち回れない。その不器用さを誇ることも出来ない。嘘を吐くことは男児としてみっともないからだ。知っている。そんな陳腐な自尊心こそみっともないなどという平凡な言葉は何度も聞いてきた。でも、無理なのだ。最近は独りよがりではなく、お客さんを楽しませることが出来るようになったと思っていた。妥協せずに、騙さずに、自分にも嘘を吐かずに、これで神谷さんに褒められたら最高だと一人でにやついていた。昔よりも笑い声を沢山聞けるようになったから、神谷さんの笑い声も聞けるんじゃないかと思っていた。でも、全然駄目だった。日常の不甲斐ない僕はあんなにも神谷さんを笑わすことが出来るのに、舞台に立った僕で神谷さんは笑わない。

p.133~132

 

ここを皮切りに、徳永の神谷に対する思いが溢れんばかりに綴られている。感情があふれ出してしまったかのような、怒濤の思いだった。

 

口を開いた徳永は、神谷の笑いというのを全否定してしまう。こんなことが言いたいんじゃない、と思いながら。神谷を愚弄しながら、本当は神谷がそんな人間ではないことはわかっていると思いながら。それでもしゃべり出した言葉は止まらない。

 

私は、徳永は違う違うと思っていたけれど、きっと口に出したことは本音だったのではないかと思う。かといって、自分を諫めていたもう一つの気持ちが本音ではなかったというわけではなく、どちらも思っていることであって。侮蔑も憤りも愛情も尊敬も、全部が本音なのではないかと。

 

痩せたいけど食べたい、という欲望と同じように、相反するがたしかにどちらも思っている感情はたしかにある。思っていたからこそ言葉に出てしまったのであり、それを言いたくないし思っているわけではないというのも本音で。そんな風に見えた。

 

そして、徳永と神谷はその日を境にしばらく会わないことになる。

 

神谷という男と衝撃のシーンについて

 神谷という男に興味を持ったと書いたが、なぜ興味を持ったのか。最初は、主人公の徳永がなぜ「弟子にしてください」と言ったのかはわからなかった。お客相手に突拍子もない漫才をしていたことは確かだが、そこに笑いの魅力があるとは感じなかった。

 

だから、きっと最初に興味を持ったのは「なぜ徳永が魅力を感じたのか」を知りたかったから。徳永目線での神谷という人物は、とんでもない。周りとの人付き合いも悪いし、突拍子もない漫才をやったりするし、「いないいないばあ」さえ知らなかったりする。

 

ただ、とことん笑いを追求していた。一本筋が通っていた。神谷の言葉だけでは受け取れないが、徳永の思いで上手に濾過してくれるから、読み手としては神谷の人となりをわかりやすく知ることができた。

 

徳永と神谷が会わなくなり、神谷は借金で失踪し、徳永は芸人を辞めることになった。徳永の最後の漫才を見に、神谷が来る。そして、笑っていた。

 

久しぶりに再会した神谷はあまりにも衝撃的すぎることになっていた。ここで書くのもためらうし、書かずに読んでほしい。私は言い様のない嫌悪感でいっぱいになった。そのことについては、徳永が懇切丁寧に神谷に言い聞かし、神谷も理解してはいたが。

 

衝撃的すぎる出来事のせいで、最後まで読んだがあまり読み終わった気がしなかった。読み終わってから少し時間を空けて、その衝撃的な出来事について考えてみた。

 

神谷が衝撃的なことをしたのは、徳永の言う通りただ「面白いのではないか」と思ったに過ぎない。それに対して私が面白いと思えなかったから、嫌悪感を抱いたのだろう。

 

よく考えると、私は徳永の目線というフィルターを通してしか、神谷という人物を知らない。徳永は、神谷の「常に面白くあろうとする姿」を尊敬しているし、神谷に「面白い」と思ってもらえることを何よりの喜びだと感じている。

 

が、神谷は売れていない。ウケていない。芸人仲間からも好かれていない。それら全てが面白くないことに直結するわけではないが、世間的には全てにおいて「異端」な存在なのだ。それは「面白い」ということも例外なく「異端」になってしまっている。

 

徳永を通しているから「すごい存在」だと思っているが、そう思っているのは徳永だけだったのではないか。

 

私がものすごい嫌悪感を抱いてしまうほどの衝撃的な出来事には、神谷が「売れなかった理由」であるとか、「世間に面白いと思われない理由」や「他人に共感されない理由」が凝縮されているように思う。と同時に、「本当に純粋に面白いと思ったからやった」こともわかる。あまりにも徳永らしすぎることだった。

 

そういえば、徳永と神谷はメールのやりとりの文末で、お笑い返しのようなことをしていた。徳永と神谷が最後に別れた日、徳永は「テレビに出てから言え」というようなことを言った。再会して神谷が衝撃的なことになったのは「テレビに出るためにどうしたらいいか考えた」ということを言った。

 

つまりは、神谷は徳永のボールをどうやったら返せるかを考えていて、神谷なりの答えが衝撃的なことだったのだ。それもずっと「面白い」であり続けたいという思いからだ。いろんなことを複合的に考えると、やっと神谷の行動が腑に落ちた。

 

それでもあのラストシーンで良いのだろうか、とやはり考えてしまう。いや、徳永と神谷らしいのかもしれない。

 

『火花』というタイトルを考える

この本にはタイトルの「火花」という言葉は出てこない。私の記憶が正しければ。

 

花火は出てくる。一番最初に。徳永が人々を惹きつける花火の存在感に圧倒されているようなシーン。そこで、神谷と出会う。

 

花火に比べれば、徳永や神谷は火花のような存在なのかもしれない。花火は大きく打ち上がり、視覚と聴覚で圧倒的な存在感を見せつけ、多くの人を魅了して湧かせる。「人々を笑わせたい」という思いがあるなら、とてもではないが花火には叶わない。

 

けれど、火花も燃えている。それは情熱か。火花があっても通り過ぎる人しかいないけれど、たしかにそこで燃えている。

 

読み終わってから、そんなことを考えた。

 

次作も読みたい

お笑い芸人として又吉直樹さんは好きだ。『火花』はお笑いがテーマの作品でもあるし、さまざまな状況や感情の描写というのは、経験から来たものではないかと感じた。少しだけ知っている部分と、作品をつなげ合わせようともした。

 

けれど、純粋に作品として「読みたい」と思える小説だった。たしか次作も出ていたはずなので、読んでみたい。

 

 

aoikara

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