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【読書感想文】又吉直樹『劇場』切り捨てられず、感情移入できず、漂いながら読む

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この本は、一言で言えば恋愛小説だ。ただ、恋愛を読む小説ではない。ある人物が大切に思っていた人と過ごした時間を、心の内部まで覗き込んだような感じ。とても“きれいな恋愛物語”ではなく、切り捨てられるわけでもなく、感情移入できるわけでもなく、間を漂っているような心地になった。

 

※ネタバレも含みます。

 

 

あらすじ

演劇を通して世界に立ち向かう永田と、その恋人の沙希。夢を抱いてやってきた東京で、ふたりは出会った―。『火花』より先に書き始めていた又吉直樹の作家としての原点にして、書かずにはいられなかった、たったひとつの不器用な恋。夢と現実のはざまにもがきながら、かけがえのない大切な誰かを想う、切なくも胸にせまる恋愛小説。

引用元:内容(「BOOK」データベースより)

 

感想

恋愛は特別ではなく、日常の中にある

この本は恋愛小説だ。ということを知らずに、お笑いコンビ・ピースの又吉直樹さんの、2作目の作品だからという動機で読んだ。読んで、これは恋愛小説だな、と思った。

 

しかし、私が想像する恋愛小説とは違う。淡い気持ちを抱いたり、自分と重ね合わせて共感したり、ドキドキハラハラといった感情の揺さぶりがあったり。塩梅はそれぞれだが、甘酸っぱい。が、この本にはその甘酸っぱさがない。

 

“恋愛”にフィーチャーした小説というのは、恋愛を特別視している。小説のテーマであるのだから、特別視するのは当然だろう。

 

一方で、この『劇場』は、恋愛を特別視していないというか、日常の中にある一つの存在としてそこにあるような印象を抱いた。

 

もちろん恋愛は特別だ。淡い気持ちを抱き、心が揺さぶられ、あれこれと悩み、思ってもみないことを言ったり行動したり、自分でさえも予測できないことだらけで。だけど、必ず人の日常の中に存在している。

 

主人公の永田の変化を考えれば、沙希と出会ってからは、“特別”だったのかもしれない。変わっていないようで、永田は変わっていたから。社会とのつながりを、いやでも感じてしまうようになったから。わかりづらいけれど“特別”だったのかもしれない。

 

ただ日常であることを忘れさせなかった、可笑しくて、悲しくて、切ない。そんな恋愛小説だ。

 

切り捨てる、と、共感する、の、狭間

主人公の永田は演劇の世界に身を置く男。と言えば聞こえは良いが、売れない劇団を立ち上げ、周りからも尊敬どころか憎まれもするような、深く人を傷つけることもあるような、理解できないような男。

 

人とは違っていて、違いすぎて、理解できないところまで一人で歩いて行ってしまっているみたいに。その一縷にでも共感される部分があれば、もしかすると“天才”なのかもしれない。

 

演劇に没頭する力はすごいし、発想や表現しようと努力する姿もいいなと思うけれど、何かが足りない。永田が一番嫌っている、大衆への“共感”かもしれない。ただ、結果として生み出している行動は、醜くもある。

 

見た目も行動も不可解で、恋人である沙希に対しても良いパートナーとは到底言えるものではなく、読みながら嫌悪感を抱くこともある。

 

しかし、私は「気持ち悪い」「クズ」とうっすらと感じながらも、切り捨てられるわけではない。と同時に、切り捨てて片付けてしまえる人は、この社会の多数派なのではないかと思う。私もリアルな世界で遭遇したら、きっと能動的に切り捨てるだろう。

 

一方で、恋愛における感情の“揺れ”には共感する部分もある。沙希のどこまでも信じてしまうところとか、それでも社会的に自分を落とし込んだときの価値であるとか、永田がいかに自分がダメだとわかりながらも恋人には受け入れてもらえると思いたいところとか。

 

ただ、自分とは違うという気持ちもあり、心底感情移入できるわけでもなかった。人間としての未熟さに、ふわっと自分を寄せてしまうことはあったけれど。

 

「気持ち悪い」と切り捨てられるわけでもなく、心底感情移入できるわけでもなく、また同時にどちらの目もありながら、どちら側でもない。その中間に漂いながら読んでいたような感覚だった。

 

これは“文章”だ

読みながら気になった部分があった。「気になった」と言うのは、良いとか悪いとかではなくて、「もしかして…」と感じたことなのだけれど。

 

永田が、元劇団員の青山という女性と、メールで罵倒し合うシーンがある。お互いにお互いを軽蔑している二人は、相手を全否定するために、いつの間にかものすごい長文を送り合う。

 

他人同士の言い合いであるはずなのだが、まるで永田の自問自答のようでもあった。責められていることに関して、自分自身でもわかっていて、それを論破する術も持っていて、相手が何にどう傷つくかも知っていて、いつでも傷つかせることができると思い込んでいて、何か自分の中と闘っているようにも見えた。

 

私の経験として、頭の中の考えていたことを文字に書き起こして、文章が止まらず、恐ろしいくらいに長文になっていたことがあったのを思い出した。ああ、これは言い合いの言葉ではなくて、何かしらの形に残した“文章だな”と感じた。実際にメール文という文章だったし。文字にするからこそ、ノッてきてしまう。

 

口から出す言葉だと、あんなに長文にはならなくて、言いたいことを言いたいように、好き勝手に言うのにも限界がある。ただ、頭の中は口に出す以上に膨大な思いがある。それを“文章”にするから、形として恐ろしいほどの重さとなってしまうのかもしれない。

 

たぶん作家「又吉直樹」の本が好き

又吉直樹さんの小説を2冊読んだ。それだけでは判断できないが、感じたのは、誰も書かない人を書くこと。同じような人が出てくる他の著者の作品を読んだことがない。

 

又吉さんだけが書ける部分、書ける言葉、書ける思考なのだと思う。そして、私は又吉さんがすくい取った人に、軽蔑する感情を感じながらも「どうでもいいとは思えない」と気にしてしまう。そして、自分をぼんやり重ねて、離れて、漂って読むのだ。

 

たぶん、私は読者としてファンなのだと思う。次作も楽しみに待ちたい。

 

 

aoikara

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