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【読書感想文】恩田陸『蜜蜂と遠雷』小説から音楽の世界に連れ出してくれる

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「音楽を狭い室内から広い世界に連れ出してごらん」

 

と、この小説で語りかけてくる人物がいる。

 

音楽は、その実が小さく狭い室内で“音”でしかないかもしれないけれど、心の内を振るわせ、時空や国境も越えて響きがつながりを作り、壮大な世界を作っていくこともある。素晴らしい音楽に出会ったときは、その壮大さを体感できる。

 

小説も、その実は紙の上の文字の連なりに過ぎないが、心の内を振るわせ、2次元だったはずの世界が立体になり、3次元にも4次元にも広がり、思ってもみなかった景色を作っていくことがある。

 

この小説は、音楽というテーマを通じ、ただの紙と文字ということを忘れさせる。たしかにそこにピアノの演奏がある。音楽がある。素晴らしい音楽を聴いて、思わず立ち上がって「ブラボー!」と叫ぶときのように、興奮し、心が震え、感動してしまう。そんな小説だ。

 

あらすじ

私はまだ、音楽の神様に愛されているだろうか?ピアノコンクールを舞台に、人間の才能と運命、そして音楽を描き切った青春群像小説。著者渾身、文句なしの最高傑作!  

出典元:内容(「BOOK」データベースより)

 

読書感想

現実と小説の境目を失うような

本当に面白い小説は、物語に入り込める。沈んでいくような感覚がある。トリップしているようなその感覚はすごく気持ちいい。登場人物の心情にも一喜一憂してしまう。

 

このトリップするような感覚があるからこそ、襲ってくるような怒濤の表現も受け止められる。止めることのできない音楽を聴いているのに近いのかもしれない。

 

私のようにのめり込んで読むタイプではなく、客観的に読んでいる人には、もしかするとナルシシズムのような見え方をするのかもしれないと、ちょっと客観的になったときに思ったりもした。

 

奮い立たせる力がある

すごくのめり込んでしまう小説ではあるが、私の中に客観性を呼び戻してしまうときがある。それは登場人物たちの思考があまりにも深いから。

 

この物語は、天才と凡人が出てくる。ー凡人、といっても傍から見るとみんな天才のように思える。天才側から見た、凡人と天才なのだがー

 

とはいえ、天才と思われている人も、おそらく自覚はしていない。自分に備わっている力を感じていても、当たり前すぎてそれを天才的だと評価されることに違和感があるのだろう。それがすでに天才だと思うが。そんな天才の心情が描かれている。

 

私も、凡人側の立場から言われていただくと、天才には凡人の考えも及ばないような範疇がある。手の届かない領域が。凡人が考えに考えて、悩みに悩み抜いてたどり着いたことでも、天才はすでに手にしている。

 

だから、凡人が一生懸命に深く深く考えていたとしても、天才は感覚で掴んでしまうんだろうな。考えなくても手にできるんだな、とずっと思っていた。

 

しかし、違っていた。天才も考えている。しかも、もっともっと深いところで。それこそ私が考えも及ばないような深さで考えているのだ。

 

もちろん考えているのは登場人物たちだ。が、『蜜蜂と遠雷』を書いている恩田陸さんの思考がものすごく深いからこそ、登場人物たちに投影させられるのではないかなと感じる。

 

思考が深い。広いのでもなく厚いのでもなく深い。

 

通常は天才な人の天才な姿を傍観者として見ていても、その心の内までは覗けない。しかし、この小説では天才たちの心の内を感じつつ、恩田陸という天才的な作家の心の内を見ているような気にもなるのだ。

 

私自身、考え込んでしまう性格で、深く考えられるタイプだと思っていた。そう思っていた自分に恥ずかしくなるほど、恩田陸さんは深く深く考える人なのだなと感じた。

 

例えるなら海のようで、気候によっても大きく変動するようなナマモノ感がある。対して私は浅瀬の水をすくって、試験管に入れてその底を見て「私って思考が深いんだわ」と自己満足に浸っていて恐ろしい。その水を海に入れてしまえば、もうどこにあるかわからなくなってしまうほど深さが違うのに。

 

この作り込まれた物語の労力、そして何より思考の深さを思うと、畏れのような気持ちさえ湧いてくる。

 

未熟な書き手として、偉大な作家のすごさを見せつけられて嫉妬してしまう。気付いてはっとしたときに、どうしても我に返って客観的に見てしまう自分がいる。

 

この物語は、音楽を愛する登場人物たちの成長や進化を感じさせて、「私も頑張らなければ」と私を意欲的にしてくれる。と同時に、恩田陸さんという小説家のすごまじさを受け止めて、書き手としての私もすごく刺激してくれる。

 

そういう意味で「奮い立たせる力がある本」と表現したい。

 

音を文字にすること、文字を音にすること

何か表現したいことがあって、音楽は作られる。言葉なのか、気持ちなのか、出来事なのか、記憶なのか、何かしらが音楽として表現される。

 

なかには言葉で表現するのは難しいが、音楽を通じて表現できることもある。だからこそ、音楽を言葉に落とし込むのは難しい。翻訳できない異国の言葉のように。

 

少し話がそれるが、私はブログでドラマのあらすじを書くことがある。役者さんの演技や表情を言葉にしようとするが、「伝えきれてないな」と感じることが多い。私のボキャブラリーが貧相なことも大いに関係しているが、言葉にできない演技や表情と出くわすことも多いからだ。

 

極論を言えば、その演技や表情を「見て!」だ。そうしない限り共感はできないと冴思うこともある。

 

音楽も似ていて、言葉で伝えるより、もう「聞いて!」となってしまうことがある。それしか最高に感じられる方法はなくて、言葉で説明しようとすればするほど離れてしまう。

 

音楽と言葉の間には壁のようなものがあるのかもしれない。

 

壁があるはずなのに、この小説はすごい。音楽を言葉に落とし込み、音の一粒一粒の多彩さを巧みに伝えてくれる。まるで本当に音楽を聴いているかのような楽しさがある。興奮さえする。読んでいて本当に楽しい。

 

逆にこの小説のような音楽を実際に再現することができないだろうとも思う。ピアニストである塵も、亜夜も、マサルも、明石も、この小説だから存在する音楽家で。この小説でしかないピアノで、音楽で。でもたしかに彼らと彼らの音楽があり、興奮し感動する。

 

まさに小説から音楽の世界に連れ出してくれる。この小説の中でしかないことのはずなのに、確かに私は心揺さぶられていた。

 

小説の醍醐味と、音楽のエモーショナル、どちらも感じられる稀有な小説だ。この感覚は感じたことがないと思うし、最初に読み切ったときは本当に心が震えた。

 

音楽と共に楽しめる

この本をよりリアルに感じたいと思って、演奏している場面や観客として聞いている場面では、その曲を実際に聞きながら読んでみた。これがすごく楽しい。

 

物語の世界に入り込んだような感覚になれる。ちょっぴりナルシシズムを感じてしまうような文章や表現にも、音楽があるから酔いしれるような。映画やドラマの音楽というのも、入り込みやすさをアシストしているのかもしれないなと思ったりして。

 

個人的には2つぐっときた曲があった。1つは、第1次予選の高島明石の1曲目、J.S.バッハ「平均律クラヴィーア曲集 第1巻 第2番 前奏曲、フーガ ハ短調」。穏やかな曲調から、激しい旋律に変わるときにはっとさせられて。明石のあふれ出した感情や記憶が重なり、こちらも胸を打ちました。

 

そしてもう1つは、本選のマサルのプロコフィエフ「ピアノ協奏曲 第3番 ハ長調」。ピアノに入るまでが少し長く、期待感を煽ってくる。そして、語られていたように一瞬にして心を奪われるピアノの音。ここまで読んできてマサルというキャラクターを読者も理解できるようになっているから、「ああ、これはマサルだな」とこちらも笑みがこぼれてしまう。

 

ただ、どうしても読むスピードの方が音楽より速いわけで、小説を読みながらリアルタイムで音楽を全て聴くことはできない。それだけが少し残念。小説を読み終わった後に音楽を全て聴いたが、本当に聴き応えがあって楽しかった。

 

この本を読み、心情を照らし合わせながら、音楽をしっかりと聴けたら。こんな贅沢はないな。『蜜蜂と遠雷』コンサートとかやってほしいな。と、個人的な要望が出てきてしまう。

 

蜜蜂と“遠雷”とは?

この小説のタイトルは『蜜蜂と遠雷』。蜜蜂とは、風間塵が養蜂家で生まれ育ったからだろう。彼にとって初めての音楽が蜜蜂の羽ばたきで、それが全てだ。私は蜜蜂が楽譜に書かれた音符のようにも思える。

 

では、“遠雷”とは?私の記憶に間違いがないのと、読み飛ばしがなければ、この小説に「遠雷」という言葉は出てこなかったように思える。しかし、タイトルは『蜜蜂と遠雷』だ。作者の恩田陸さんも明かしていないので、勝手に考えてみた。

 

雷とはかっと稲妻が光り、どーんと空と地面が揺れるように鳴り響く。衝撃。亡き偉大な音楽家ユウジ・フォン=ホフマンは、最後の弟子である風間塵のことを「爆弾を仕掛けた」と周囲に匂わしていた。その存在は音楽界にとって、ピアニストたちにとって、たしかに衝撃だった。

 

同時に、“遠”雷なので、近くにある雷ほどの恐怖は感じない。胸の中にマッチの火のようにゆらゆらとした恐怖はあっても、遠くにある雷は衝撃というよりも“音”だ。“雷”と聞いて、音楽を聴いていてまるで雷のように体の奥に鳴り響く音があるなとも思った。そして、物語で「風間塵とは音楽だ。彼は音楽そのものだ」というように最後に締めくくられている。

 

蜜蜂の羽ばたきから生まれ、遠雷のような衝撃を与える、風間塵。そして、蜜蜂も遠雷も、全ては音であり、世界は音楽で溢れている。

 

『蜜蜂と遠雷』とはすなわち風間塵であり、音楽であり、音楽を愛する全ての人の心を打つものであるのではないかと。私は、このように考えた。

 

長くなってしまった。それほどに私はこの小説を好きになった。

 

 

以上です。

 

aoikara

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