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【読書感想文】平野啓一郎『マチネの終わりに』過去は未来によって変わることもある

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「過去は変えられないが、未来は変えられる」というよく聞く台詞がある。私自身もよく使っている。しかし、この物語は「未来が変わる」。決してSF小説ではない。意味合いが少し違う。

 

「過去の出来事は、未来によってその有り様が全く変わってしまうこともある」というのがこの物語で言いたいことだ。その気持ちをあまりにも感じてしまうのがこの本だった。

 

※ネタバレを含みます。

 

あらすじ

 結婚した相手は、人生最愛の人ですか?ただ愛する人と一緒にいたかった。なぜ別れなければならなかったのか。恋の仕方を忘れた大人に贈る恋愛小説。 

出典元:内容(「BOOK」データベースより)

 

 

 

感想

愛せば愛するほどもどかしい

私は恋愛小説を読むことはあまりない。恋や愛がテーマの作品は好きで、感情移入もできるが、心の内を覗いているようで気恥ずかしい気持ちになってしまう。作品ではなく実際の人間関係における恋愛は梨も、どこか他人事という気持ちも自分の中に見え隠れしてしまう。

 

この小説の序文でもこう書かれている。

 

一体、他人の恋愛ほど退屈なものはないが、

p.8

 

退屈とまでは言わなくても、当事者とまったく同じ感情になることはできない。恋愛とは感情に支配されていて、理性的ではなく、客観的に見てわかることを指摘しても、恋愛に囚われると見えなくなってしまう。私自身も。だから、他人の恋愛はどうしても他人事になってしまう。

 

ただ、その序文はこう続けられている。

 

一体、他人の恋愛ほど退屈なものはないが、彼らの場合はそうではなかった。

 

彼らとは、登場人物のクラシック・ギタリストの蒔野聡史とジャーナリストの小峰洋子のことで、二人の恋愛の物語が描かれている。

 

この本が恋愛小説であることは知っていた。どういうあらすじかは全く知らなかったが、以前にメディアで強く勧められていてとても気になっていたのだった。

 

読んでみて、人が恋し愛する様を見て、不思議と共感した。いつもはどこか他人事のように感じていたのに。

 

恋の始まりについて、どこか胸がざわつくような、何か気になるような気配のようなものだったことを思い出した。いきなり「好き」と思って始まるのではない。何か、相手のことが心に残ってしまうあの感情。自分の過去の淡い記憶からゆるやかに思い出された。

 

思いが高まり、いやしかしこんなに昂ぶってしまっているのは自分だけではないかと、冷静さを取り戻してみたりもする。相手にとって都合よく思われようと、構わない。それでも会えばやはり思うところが一緒だとわかり、深く通じ合える。だけど、やはり心の底では相手がどう思っているかはわからない。

 

蒔野と洋子のどちらの気持ちも見てしまっている読者としては、お互いの気持ちが同じように引き寄せ合っていることがわかっているだけに、油断するなと言い聞かせているような二人の姿はとてももどかしかった。

 

私にとっても、彼らは“そうではなかった”他人の恋愛になっていた。

 

運命の悪戯はいつだって恣意的

蒔野と洋子がお互いを思えば思うほど、何かどこか微妙にずれていくのを感じた。恋愛としての思いは全く同じはずなのに、すれ違ってしまうような予兆があった。見ていても気づかないのに、いつのまにかずれてしまっていた時計のように。

 

だから、何となく二人は思いを打ち明け合い、人生の伴侶となることを決めたのを読みながら、どこかで別れるのではないかと予想していた。事実、彼らは別々の人生を歩むことになった。

 

ただ、思っていたきっかけとは違った。時計の針を恣意的に動かして、ずらしてしまった人がいたのだった。運命の悪戯とはよく聞く言葉だが、それも全ては恣意的なものなのではないかとさえ思ってしまった。

 

蒔野と小峰のことを思うと、あまりにも残酷すぎる悪戯だった。こうなってほしくはない、と思っていた以上に最悪だった。手を加えた人間のことは、ただの読者としても憎らしい。

 

ただ、その気持ちが全くわからないかと言われると、そうも言えない自分がいる。人が人を想うとき、狂気的になることがある。その瞬間は狂気的だとわかっていても、その選択しかありえないと思ってしまう。冷静に考えれば愚かなことはわかっているのに、それでも選択してしまう。

 

私も今だってそんな過ちばかりしてしまう。反省して、改めようとしても、心が狂気に支配されてしまうことはある。誰しもの心に潜んでいる狂気のように思う。

 

だけど、だからこそ、そんなことがあってほしくはなかった。

 

ただ、恣意的に変えられた運命は、あらがうように引き戻される。しかし、絶対に引き戻させないように事実をきちんと残しているのも、また運命なのかもしれない。

 

蒔野と洋子がすれ違いの真相を知ったときに、絶望と、その絶望を受け入れることが目の前にある希望を全否定することになるとわかり、絶望を絶望と受け入れることをまた苦悩していた。

 

そして、二人は―。その続きはぜひ読んでほしい。私が語ってしまうのはなんだか陳腐だ。十分すぎるほど語っているのだが。

 

この物語は終わりだとしても、人生は進んでいくだろう。そこは予測もできない。読んだ人はどう考えるのだろうか。私は、あえて先を考えたくない。この物語の終わりを受け入れて、ただ浸っていたい。

 

過去は未来によって変わることもある

この物語は「過去は未来によって変わることもある」という話が出てくる。不思議な話だ。「過去は変えられないが、未来は変えられる」というのが当たり前のように思える。

 

ただ、ニュアンスが違っていた。「過去の出来事は、未来によってその有り様が全く変わってしまうこともある」という感覚。最初は「なんとなくわかる」程度だったこの感覚が、物語を通して染み着いていくような感覚になるのを感じた。

 

「過去の出来事は、未来によって―」のひとつの中に、私が好きな話がある。洋子の父はフランス人の映画監督で、母は日本人のハーフ。父はフランス人とはいえ、ルーツが複雑で、戦争に関わっている人種でもあった。そのルーツから、彼の映画ができた。

 

その父と母は離婚している。そして、その後数年間、父親は活動をしていなかった。洋子の前から9年間も去っていた。その間に洋子は父親と話せる言語を失い、再会しても言葉を通じ合って話せることはなかった。話せるようになったのは大人になってから。

 

それ以前も以後も映画製作はしていたが、その時期だけが空白期間だった。蒔野も映画監督として知っていたので、気になっていた空白期間の理由を洋子に聞くも、洋子も知らなかった。

 

蒔野と別れてから、洋子は父親と会う機会があり、ふと蒔野が言っていたことを思い出して父親に聞く。空白期間は何だったのかと。その答えは、予想もしていなかったことだった。

 

詳細は書かないが、洋子の過去が変わった瞬間だった。父の言葉と、洋子が返した、

 

「だから、今よ。間違ってなかったって言えるのは。……今、この瞬間。わたしの過去を変えてくれた今。……」

p.375

 

という言葉を聞いて、私は涙してしまった。何かが溢れてくるかのように泣いてしまった。自分でも泣くなんて思わなかった。「過去が変わった」を何よりも実感できた瞬間だったからかもしれない。

 

そして、自分の経験の中でも、たしかにそんな体験をしていたこともあったと思い出す。「過去は未来によって変わることもある」と知った未来の自分によって、経験していた自分を見直すことで、その過去の有り様は違って見えるようになった。

 

私も本を読んで、「過去は未来によって変わることもある」ことを体験したのだった。

 

序文を終わりに読んで

この本は最初に序文がある。そして、どんな物語なのか予告をしてくる。「最初からそんなことを言ってしまって良いのか」と思うほどに。「ずいぶんと期待値を上げるのだな」とも正直思った。あまりぴんと来ていなかった。

 

しかし、読んでいくうちにのめり込み、蒔野と洋子の行く末が気になって仕方なくなり、睡眠時間を削ってでも本のページをめくるまでになってしまった。読み終えたときは、何かを見届けたような達成感さえあった。

 

そして、改めて序文を読んだときに―実はこの感想を書くまで、序文があるのを忘れていた―、こんなに感じている様が変わるのかと驚いた。あまりぴんと来ていなかった序文が、全てにおいてうなずくような気持ちになる。

 

序文を最初に読んだ過去は、再読した未来から見ると、違った景色になる。最後まで、「過去が未来によって変わることもある」と思わせてくれる本だった。

 

aoikara

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