※読んでいる前提で思いのままに書いた文章をそのまま残したものです。内容を具体的に書いているわけではないので、わかりづらいところがあるかもしれません。
「感動する」とか「絶対に泣ける」とかいう本は苦手。でも、読んだら読んだで泣いてしまう。でも、全くそんな本ではないはずなのに琴線に触れることがある。私にとって「サラバ!」はそんな本でした。
1977年5月、圷歩は、イランで生まれた。父の海外赴任先だ。チャーミングな母、変わり者の姉も一緒だった。イラン革命のあと、しばらく大阪に住んだ彼は小学生になり、今度はエジプトへ向かう。後の人生に大きな影響を与える、ある出来事が待ち受けている事も知らずに―。
内容(「BOOK」データベースより)
読み終わると泣いていた
読み終わると、気がつくと、泣いていた。なんで泣いていたのかはわからない。ただただ、いつの間にか涙が流れていた。何に対してなのか、何が琴線に触れたのか。
歩と私の共通点
私にも主人公の歩にとっての“姉”のような存在がいた。いや、いる。その人を見ながら「ああはなりたくない」と思っている。だから私は「賢く生きている」と思ったし、その人と私を比較されて「賢く生きている」と評価されると非常に満足した。
その人を見ながら蔑んでいたのだ。それで、自分がいかに優れているかと感じたかったのだ。
歩は良い自分を演出するために、自分の評価を上げてくれる人と一緒に居たがった。私はある種同じで、ある種逆だった。昔の私は、自分と一緒にいる誰かが自分の評価を下げない人であってほしかった。
だから、人を線引きしていた。していながらも、分け隔てなくできる須玖のような人物にも憧れていたのだ。
とても残酷で、とても寂しい
私が蔑むその人が「信じるものを手に入れた」とき、私はそれを信じたくないだろう。その人が幸せで、安定して、そんな姿を受け止められるだろうか。
他人の不幸は蜜の味、というわけではない。その人の不幸をほくそ笑んでいるわけではない。
でも、信じきっているのだ。その人はいつだって変わらず、いつだって同じ過ちを繰り返すから、私にとっては反省材料にしかなり得ないのだと。潜在的に、そう感じるのだ。
とても残酷な考えだ。そして、とても寂しい考えだ。
歩は“今の私”ではないのか
私の文末は全て過去形になっている。本当にそうなのか、未だにそうなのかもしれない。読み終わったときに流れた涙は、自分自身の姿を見ているようで、自分を哀れんでいたのではないか。
自分の中の悪魔のような感情は、自分のためといいながら、主体性がないのがやっかいだ。
「信じるもの」を求めて
歩がヤコブに会いに行ったように、私も私の大切な人に会いに行きたくなった。遠くへ。それが私の信じるものの一つであるとたしかめたいのかもしれない。
しかし、それは委ねるということではないのか。
「あなたが信じるものを、誰かに決めさせてはいけないわ」
でしかないのではないか。“姉”の言葉が私のなかで反芻する。
彼の「サラバ!」のようなものが、私の中にも少しずつある。それは神様になり得るのか。
信じるものを見つけなければ、また同じ道を歩むことになる。過ちを繰り返しているのは自分自身だとそろそろ気付け。繰り返しているのはおまえだ。自尊心は他人を下げるのではなく、自身を高めて作れ。
つまらない自分に「サラバ!」したいのだ。そして、唱えるのだ。「サラバ!」に変わる信じるものを。
以上です。
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