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【読書感想文】東野圭吾『虚ろな十字架』 罪を償う方法に正解なんてない

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罪を犯してしまったら、どうやって償えば良いのか。自分が罪を犯す側になってしまうかもしれないし、犯罪の被害者になってしまうかもしれない。法治国家の日本では、法律によって裁かれるのみ。しかし、もう二度と元には戻らない。

 

一度罪を犯してしまえば、本当の意味で償うことなどできないのかもしれない。

 

 

 

※ネタバレを含みます。

 

あらすじ

別れた妻が殺された。もし、あのとき離婚していなければ、私はまた遺族になるところだった。東野圭吾にしか書けない圧倒的な密度と、深い思索に裏付けられた予想もつかない展開。私たちはまた、答えの出ない問いに立ち尽くす。

引用元:内容(「BOOK」データベースより)

 

感想

死刑

本書では、幼い娘を強盗に殺され、その後に別れた妻も何者かに殺された中原道正という男の目線が主軸となっている。娘を殺した犯人は過去にも罪を重ねており、夫婦は遺族として死刑を望む。私も読みながら、当然の感情だと思った。

 

今の日本での極刑は死刑だ。この本を読む以前から、私は死刑については漠然と賛成派だった。自分の大切な人をもし殺されたなら、犯人が生きていることを許してはおけないと、被害者側や遺族側の立場になって思ってしまうからだ。

 

ただ、本書を読んで、強く印象に残っていることがあった。死刑が決定し、たとえ犯人が死んでも大切な人の命は戻ってこない、と。その通りだった。犯人が死んだからといって、せいせいしたとは思えないだろう。

 

だからこそ、道正の元妻・浜岡小夜子は、死刑になるのは当然のことで、あくまで通過点で、遺族はそこからやっと次に進めるのだと考えていた。

 

読みながら、ふと思い出したことがあった。アメリカ人のドキュメンタリー映画監督、マイケル・ムーア氏の『マイケル・ムーアの世界侵略のススメ』を観たときのことだ。そこに、死刑制度ない国について取り上げられていた。

 

何人も何十人も殺した人間がいても、その国では死刑にならない。猟奇殺人犯に息子を殺された遺族の元へ行き、マイケル・ムーア氏は「犯人を殺したいと思わないのか?」と聞く。

 

「そうは思わない。犯人の命を奪う権利は私にはない」と息子を殺された父親は語った。マイケル・ムーア氏が何度聞いても、苦しい表情を浮かべながら父親の答えは変わらなかった。

 

私は、この本のように、遺族は皆犯人が生きていることを許せないのだと思っていた。それは死刑がある日本の価値観なのかもしれない。もちろん、死刑制度がない国でも、犯人に命を持って償ってほしいという人もいるだろう。

 

ただ、そうではない人もいる。そういう人が冷酷かというと、全く違う。他人を許す寛容な人だとも思わない。

 

遺族になって死刑を望む人も望まない人も、心の中にあるのは同じ気持ちで、「犯人を殺したところで、もう大切な人は戻ってこない」という途方もない虚無感。そこから先にある処罰感情には、「犯人には命を持って償ってほしい」と「命を奪う権利はない」と違いはあるが、根本は同じなのではないかと思う。

 

司法制度としてどちらが正しいのか、正しくないのか、わからない。遺族の抱く気持ちとして、命を奪うことと、奪わないことと、それも正しさはわからない。「命は素晴らしい」と説くことと「命を奪ってもその命は素晴らしい」と説くことと、何が正しいかわからない。

 

でも、私たちは罪を犯す。罪を犯すから、ずっと考えなければいけないと思う。ニュースの言葉で、報道の文字で、新聞の羅列で、淡々と語られていることは、法律の下ではあるけれど、人間の血が通っている問題だと思うから。

 

“自分の正しさ”の基準は罪の償いになるのか

刑を受け入れてから、が償いの大前提

法治国家の日本では、法律上、“刑”で罪を償うことになる。禁固刑であったり、罰金刑であったり、刑“罰”の意味合いもあったり。犯罪を犯したとしても人権はあり、何人も裁判所で裁かれる権利がある。

 

娘を亡くした小夜子は、罪を償うこととして、刑罰を受け入れることは大前提だという意見を持っていた。遺族にとっては、そこから始まると。だからこそ、過去にとある犯罪を犯した沙織と、仁科史也の罪を見逃しはしなかった。出頭するべきだと強く諭した。

 

犯罪被害者の遺族になった人間として、当然の感情のように思う。一方で、これも私の個人的な感覚だが、小夜子の対応に冷たさを感じた。心が一度死んでしまい、犯罪者は許せないという軽蔑だけが残ったような、冷たさだろうか。

 

冷たいからひどい、という思いではない。小夜子は当たり前のことを言っているのだし、娘を亡くした母親として当たり前の感情であるし、わかる。ただ温度としての冷たさを感じた。

 

罪を償う生き方

一方で、夫の仁科の過ちを知っても、誰も苦しめていないのだからと、出頭を勧める小夜子に嫌悪感を示していた花恵に対しても、「身勝手だな」と思ってしまった。仁科のことを本当に大切に思っているのはたしかだが、今の自分の安寧を奪われたくないという、身勝手な理由にも感じられた。

 

仁科は、小夜子に言われて、出頭する意思があった。しかし、小夜子が死んでしまい、その所以から結局は出頭しなかった。という選択をしたことが全てなのだと思う。

 

そもそも、最初に罪を犯したときに、子どもだったとはいえ自分を守ることに徹してしまったのが、全ての悪夢の始まりだったように思う。

 

仁科はそんな暗い過去を背負ったからこそ、仕事としても貢献し、関係のないところでも花恵を救った。花恵自身が、仁科は十分に罪を償って生きていると言う気持ちもわかる。なかなかできないことだし、その後の人生を考えると、立派な生き方だとも思う。

 

しかし、仁科はどれだけ多くの人を犠牲にしてきたのだろう。沙織も、もう一人も、そして結果として小夜子も。罪を償っていると言いながら、結果として自分ではない誰かが自分のために犠牲になっていることに、暗い感情を抱いてしまう。

 

 

結局は、皆それぞれが“自分の正しさ”で罪を償うことを押しつけてくる。それは各々のことであって、言い方は厳しいが結局は自己満足なのではないだろうか。

 

罪を償う方法に正解なんてない

他人が自分なりの正しさで、罪を償おうとすることに対して、あまりにも私は厳しすぎる書き方のように思う。それぞれの気持ちに寄り添えば、そう思うのは十分に理解できて、できる限りのことをやってきた、というのはわかる。共感する気持ちもある。

 

ただ、それでも嫌悪感を抱いてしまうのは、結局は罪を犯してしまったら償うことなんてできないからではないか、と思う。

 

普段生きていても、誰かを傷つけることを言ってしまったら、「なかったこと」にはできないし、建前で「水に流して」くれていても、言ったことには変わりなくて、言った前にはもう戻れない。言ってしまった今後しかない。

 

法律で罰せられる犯罪というのは、それこそ取り返しのつかないことで、何かをしたから戻ってくるなんてことはなくて、もっと重い。何をしても許されることがない、その重さに耐えきれず、心を守ろうとして現実逃避するようにもなるかもしれない。

 

事実、道正と小夜子の娘を殺した犯人は、もう疲れたから死刑を受け入れた。死ぬことも、ある意味現実から逃れる方法となる。

 

法律で裁かれたとしても、罪を悔いて、申し訳ないという気持ちを抱くことがなければ、たとえ死刑が執行されたとして、それは罪を償ったと言えるのだろうか。

 

法律で裁かれなくても、罪を悔いて、申し訳ないという気持ちを抱き続け、自分と同じような人が一人でも出ないようにと、生きていくことは、罪を償っていないと言えるのだろうか。

 

罪を償う方法に正解なんてない。もし、自分が過ちを犯してしまったときは、自分なりの誠意で償っていこうとするだろう。しかし、それは傍から見れば、自己満足の「虚ろな十字架」に過ぎないのかもしれない。私が同じ感情を抱いたように。

 

その重さを、血が通った人間ということを、考え続けなければいけないと思う。罪と刑を、人である以上考えていかなければならないと、重々しく感じられた本だった。

 

 

aoikara

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