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【読書感想文】東野圭吾『赤い指』家族は変わらず変わっていく

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誰しも家族がいる。それを望んでいようと望んでなかろうと、仲が良かろうと悪かろうと、顔を知っていようと知らなかろうと、家族はいる。生まれてきたということは、すなわち家族の一員になるということだ。

 

血のつながりというのは一生変わらない。家族というのは、生物学上において変わらない存在だ。しかし、変わっていく。変わってしまう。そして、変わってしまうのには、必ず理由があるはずなのだ。

 

この物語で描かれることは、家族が変わるべくして変わってしまい、起きるべくして起きてしまったことなのだろう。

 

※ネタバレを含みます。

 

あらすじ

少女の遺体が住宅街で発見された。捜査上に浮かんだ平凡な家族。一体どんな悪夢が彼等を狂わせたのか。「この家には、隠されている真実がある。それはこの家の中で、彼等自身の手によって明かされなければならない」。刑事・加賀恭一郎の謎めいた言葉の意味は?家族のあり方を問う直木賞受賞後第一作。

 引用元:内容(「BOOK」データベースより)

 

感想

読んだ前提として

最近、東野圭吾さんの加賀恭一郎シリーズを読んでいる。その流れで手に取った一冊。実は、『赤い指』原作のスペシャルドラマとを観たことがあった。なので、話の流れや結末などはすでに知りながら読んでいた。

 

展開にハラハラドキドキしながら読むわけではなかったが、それでも十分に読み応えがあった。ドラマを観たときと同様に、ただただ苦しくなる状況に、読みながらも胸が重たくなるようだった。

 

それはいつの時代であっても“家族”と“親子”という、人間にとって切ることのできないテーマが描かれているからかもしれない。

 

小説の方が丁寧で家族の崩壊の理由がわかりやすい

ドラマを観て、小説を読んだ感想としては、小説の方がより丁寧だということ。どうして家族がこんな状況になってしまったのか、ドラマよりも細かく描かれている。ドラマでは描ききれていない、あるいは私が理解できていない部分も、小説だとよりわかりやすい。

 

家族それぞれにきちんと理由があって、だからこそ崩壊し、事が起きてしまったのだという説得力がある。家族が少しずつ変化していったのには、それだけの理由があった。

 

起きてしまったことのおぞましさを考えると、事に関わったどの人物に対しても嫌悪感が止まらない。それだけに、ドラマ以上に重々しさを感じたようにも思えた。

 

ドラマの方が救いがあるのかもしれない

ドラマと小説にはいくつか相違点がある。その中で特に印象的だったのが、父親が息子を犯人だと告白した後の展開。

 

小説では、息子の対応は加賀がする。社会の厳しさを教えるような、警察官として容疑者には容赦しない姿勢だった。一方で、ドラマは父親が息子を出頭させようとする。今まで息子と向き合ってこなかった父親が、必死に向き合おうとしていた。

 

ドラマでは、父親が父親になろうとしていたのかなと思う。息子が犯罪者であることを受け止め、罪を償うのを全うさせようとする姿勢が、最後の最後で見られた。崩壊してしまった家族だけれど、少しだけつなぎとめたような。

 

小説の方が父親の内面の至らなさというか、だめな部分がよくわかる。ドラマは家庭を顧みないからこそ起きてしまった不幸、くらいだが、小説だとこの父親にも大きな要因があると感じた。

 

どん底にあるような状況だけれど、父親としての責任を果たそうとした姿を見て、小説よりはドラマの方が救いがあるのかもしれないと感じた。

 

家族は変わらず変わっていく

人は生まれたときから、家族がいる。家族を大事にしていようがしていなかろうが、それぞれの家庭にはそれぞれの事情があるので、自由だと私は思う。ただ、家族という存在があることには変わらない。生物学上に血のつながりがなければ、この世に生を受けていない。

 

年月が経ったとしても、家族という存在がある事実は変わらない。子どもの頃から大人になり、自分が結婚をして子どもを生んだとしても、自分の親が親であることが変わらないように。

 

ただ、家族の有り様というのは変わっていく。よちよち歩いていた子どもが、一人前に働く大人になるように。かわいい笑顔を見せていた子どもが、成長して親に反発するように。頼りになると思っていた親が、年老いて自分のこともわからなくなるほど弱ってしまうように。これは自然な変化だろう。

 

もっと千差万別な変化も訪れる。その家庭それぞれの。変わっていくのには、変わっていくなりの理由がある。家族としての有り様が、変化を導いているように思う。

 

この物語もそうだ。なぜ、息子は幼い女の子を殺したのか。そして、少しも反省せず、親に全てを押しつけようとするのか。なぜ、そんな息子を母親はかばうのか。なぜ、反発しながらも父親は罪を隠してしまったのか。理由がある。

 

息子が殺したのは、思い通りにならなかったからだ。家では母親が言うことを聞き、なんでも思い通りになる。ただ、学校ではいじめられて、屈折した感情を抱くようにもなり、よりヘイトがたまり、家族への当たりもきつくなった。

 

母親はとにかく息子を愛した。愛しすぎて、甘やかすこととの境界線がなくなってしまった。だからこそ、息子の言いなりだった。

 

父親は面倒事から逃げる人間だった。いつだって、大事な局面で大事な決断をしようとするのを避ける。自身の父親が認知症になったときも何もせず、介護する母を大変そうだと思いながらも何もせず、死んだときにはほっとした。浮気をして、息子がいじめられていても、面倒だと思うだけでただ叱るだけだった。

 

息子が殺人を犯しても逃げようとしたのは、そんな面倒事から逃げる父親譲りに他ならない。父親は息子に腹を立てるが、結局は何を言えるわけでもない。

 

父親の母、息子から見ると祖母になる女性は認知症で同居していた。それは仮の姿で、自分の息子家族に嫌気がさし、自分の世界に閉じこもろうとしたのだった。そうなる気持ちもわかる。そして、孫の罪を着せられそうにもなったのだった。

 

こんなことになってしまったのがわかるような、家族の在り方だった。ただ、巻き込まれた何の罪もない幼い命だけが、あまりにもかわいそうでつらい。そして、命を奪った事実は取り返しがつかないということが、この家族の罪の重さだ。

 

加賀の家族

一つの家族の話を中心に、加賀の家族の話も出てくる。視点は加賀のいとこの松宮で、母親が早くに父を亡くしたため、伯父である加賀の父にかなり世話になっていた。本当の父親のように慕っていた。が、加賀はそんな父親と仲違いしているらしいと松宮は知る。

 

その父親が危篤状態で、なんとか松宮は加賀に会ってほしいと考えていた。仲違いした理由は母親が行方不明になったことにあるが、「そんなことで」と松宮は感じる。私は、むしろ松宮の方に腹が立った。何も知らない人間が、口を出すべきことではないと。

 

そして、加賀は加賀なりに、父親の意思を尊重していたのだった。家族の在り方について正解はない。そして、二人はきちんと父と子だったのである。

 

松宮もきちんとそのことに気づいていたので良かった。シリーズの別の作品を読むと、父親に推理を仰いでいることもあり、決して仲が良いとは言えなくても、父と子としての関係性を築いていたように思う。

 

父と子は面と向かって会話をすることはなかったけれど、将棋盤できちんと会話をしていた。きっと、父もわかっていた。そんな、加賀が父のことを口にする最後のシーンが好きだ。あまりにも重々しい話だけに、家族としての一つの形を理解させてくれる終わりで。

 

家族として

家族というのは難しい。と、何度も書いている気がする。今回だけでなく、いつも思う。物語の中の家族を、私は心の中で何度も強く責めた。しかし、果たして私はもの申せる人間なのだろうかと自問自答してしまう。家族として立派な人間とは言い難い。

 

家族の有り様はそれぞれで、他人が文句を言う部分は一つもない。ただ、家族のいびつさでいらだちを生み、攻撃性を家族の中や外で向けさせるようになってしまうのは、絶対にいけないのだと思う。誰かが犠牲になってはいけない。

 

ただ、この物語でも最悪の結果になる前に、なんとかできたことは何度もあったように思える。家族を崩壊に向かわせないように、気づける人間でありたい。家族だからこそ近く、難しいことではあるけれど、だからこそ自分に強く厳しくあろうと思う。

 

家族を考えさせられる小説だった。

 

 

aoikara

 

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